8月6日。せめて今日は、原爆投下について考えよう。
ベイルートで爆発があって、キノコ雲が見える衝撃的映像、血を流す人々の映像、焼土と化した街の映像がテレビで流れた。同じ日の夜、Arteというフランスのテレビチャンネルで、HIROSHIMAと題したドキュメンタリーがあっていた。
https://www.arte.tv/fr/videos/054197-000-A/hiroshima-la-veritable-histoire/
日本人被爆者や目撃者へのインタビューもたくさん出て来るドキュメンタリー番組だ。2017年に亡くなった広島の肥田 舜太郎医師も語ってくれていた。
ある日本人女性が語る。8月6日、5人の子供たちが母親の帰りを待っている。四つん這いの真っ黒の生き物が帰って来る。子供たちは犬かと思う。それは黒焦げの母親だったーこうした被爆者の体験を知るべきではあるけれど、こんなトラウマな話を聞きたくないと思うのも、当たり前な感情だと思う。
改めて、原爆投下は、人体実験だと思う。広島にはウラン、長崎にはプルトニウム。投下直後、日本の医師たちが収集した研究や映像もアメリカに独占された。日本政府もことさら被爆者たちを率先して助けなかった。そしてその後も原爆傷害調査委員会(ABCC)が治療はせず、データを収集する。人間がモルモットとして扱われ続けたのだ。そのことに日本政府も協力し続けて来た。多くの日本人は見て見ぬふりをした。被爆者は放射能による後遺症に怯え、結婚や就職で差別された。
ああ、なんと日本の学校におけるイジメの構造と似ていることだろう。反論する人もいるかもしれないが、私の目にはそう、映る。
ABCCの研究は米国の核戦略と表裏一体だった。核戦争が現実味を帯びる中、原爆の威力を知るためのデータ収集だった。被爆者の協力なくしては得られない情報や資料を加害国の米国が独占し、多くが長い間、機密情報だった。
こんなことは、起こって欲しくない。誰の身にも起こって欲しくない。自分の身に起こって欲しくないことは誰の身にも起こるべきではないのだ。
せめて、原爆投下と原爆投下後の治療なきデータ収集は人道上の罪で、国際法違反であると国際司法裁判所に認めさせるべきだ。これは世界中のすべての人にかかわる問題である。
75年を振り返ると、核保有国による覇権の時代だったと思う。核の傘の下にいた日本も共犯者である。
パリで出会った70代の日本人女性が「原爆投下は当然の報い」と言ったことがある。日本人同士でも歴史認識、世界の理解の仕方が全く違うのだと思って驚いた。自分を日本人と思ってきたが、外国に住んで、自分より高齢の日本人女性こそが私にとっては、レヴィナスのいうところの“他者“であった。
原爆投下後の話を聞くだけで、気が滅入る。鬱になる。ご飯も美味しくなくなる。考えたくない人たちの気持ちも良く分かる。聞くだけでもトラウマを負ってしまうほどの話だ。だからこそ、人道上の罪だと言っているのだ。
ドキュメンタリーを見た日はお祝いの日だった。テレビをつけてはいけなかったのだ。お祝いの食卓に、血のついた映像が持ち込まれてしまった。ごめんね、こんな日になって。
Arteのドキュメンタリーを夫が真剣な表情で見ていた。
そう、まだそこに希望はある。人種じゃない、国籍も関係がない。気が滅入る話を知って、人道とは何かを人類が真剣に考えられるかどうかだ。
追記
ふと、新型コロナウイルス流出を疑われている武漢ウイルス研究所を思った。フランスの企業が設立を手伝い、アメリカ政府が資金を拠出している研究所だ。もし、それが、日本におけるABCCの役割や構造と似ているのだとしたら?