パリ徒然草

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啓蒙の盲目への警告か? 風刺画問題でも夫婦意見の相違

 10月からフランスで連日のように報道されて来た風刺画と公立中学教師の斬首事件をきっかけにした問題は、夫と私の意見の違いを際立たせる問題だった。当初は夫と少し話したが、私はテレビなどで見かけても、その話題からできるだけ遠ざかり、夫とは議論しない努力もしてきた。

 

 フランスでイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を教材として生徒に見せた公立中学教師がイスラム過激派の男に殺された事件(10月16日)をきっかけに、フランスとイスラム教徒(ムスリム)の多い国の間で緊張が高まっている。

 

 エマニュエル・マクロン仏大統領はこの教師の追悼集会に出席した際、風刺画を「冒涜(ぼうとく)する自由がある」と話し、バングラデシュクウェート、ヨルダン、リビアなどではフランス製品のボイコット運動や抗議デモが起きている。

 10月29日には南部ニース市の教会で、チュニジアから来た男が礼拝者らを襲い、3人が殺害された。サウジアラビアのジッダでも、フランス総領事館の警備員が襲われている。

 

 当初からフランス人の夫は、マクロン大統領の発言を全面的に支持し、教師殺害に怒っていて、私は少し意見が違うので黙っておこうと思っていた。

 

 もちろん私自身はテロや殺人は許されないことだし、自分も巻き込まれるのが怖くもある。被害に遭われた方のご冥福を祈りたい。

 

 日本の新聞や日本人のブログでも、「自分にとっては当たり前に思える常識や正義が、他者にとっては必ずしもそうではないという想像力があっての自由である」「信教に関わる問題では、侮辱的な挑発を避ける賢明さも必要だろう」「表現の自由の説明には他に多くの教材があるはずだ。よりによってイスラム教徒を愚弄するものを選ぶ必要はなかったろう」など、表現の自由がすべての場合に許されるわけではないという論調が多く、私も最初は、これに近い意見だった。

 

 かと言って敢えてそれを日記に書いたり夫に言う必要ないとも思っていた。フランスの政治の問題に何か言う立場にもない。

 

 夫の怒りを私も共有できて、一緒に怒れれば、同士になれて、夫婦円満だろう。(11月22日は「いい夫婦の日」だったそうだ)

 

 一方で、自分のことのように怒れる夫の愛国心が羨ましいとも思う。そのような愛国心を持てない自分を寂しくも思う。

 

 ロックダウンで閉じ込められている中、アパートの狭い部屋には夫の怒りのエネルギーが充満している。そして、私はその夫の怒りのエネルギーに、自分の力を吸い取られていくようだった。

 

 夫の言うように、フランス革命時に宗教を冒涜する自由がなかったなら、革命は完成しなかったかもしれない。フランスでは、革命時に検閲など言論統制がなく、自由な意見表明活動をおこなえる権利を勝ち取った。

 

 「表現の自由」はフランス共和国の根幹となっており、民主主義では当然のこととしてきた。マクロン大統領は国是たる「ライシテ(政教分離)」を曲げられない。ライシテは教会と一体の王制を倒したフランス革命の精神だ。フランスの自由は王制とカトリックからの独立から得られたもので、神や宗教に対する冒瀆も自由に当たる。

 

 大統領の職にある者が「これはよいがこれはダメ」といった判断を風刺画に加えることは許されない。さらに、表現の自由を否定し、斬首という野蛮な行為で報復することを断固として許すわけにはいかない。

 

 フランス在住者として、そう納得しようと努力していたら、今度は夫からこの本読むな、あの本も読むな問題が飛んできた。

 

 夫に、ただ冷静に禁止されたのでなく、強い口調、怒った顔、大きな声、「離婚」という言葉、ここ2ヶ月間の私への人格否定など、夫の大きな怒りのエネルギーが私に突き刺さった。ニーチェの言うディオニュソス的な「破壊」の力を思わせた。

 

 たった1冊の本のことなのに、夫から発せられるこの圧倒的に大きな負のエネルギーはいったい何なんだ? 驚きでもあった。あの日から、この一週間日記は書いているが、エネルギーを奪い取られ、どんよりと過ごしてきた。

 

 ちなみに私はヒトラーの本の後、ハンナ•アーレントの「エルサレムアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を読む予定だった。(もちろん、それについて夫も知っているし、私がもともとアウシュヴィッツに関する映画や本を見たり読んだりしていることも知っている)

 

 誰かを責める、怒るつもりも全くなかった。それでも、そうした本を読みたいという気持ちは原爆投下に至る日本の歴史とどこかでつながっているのだろうという思いもあった。時間がある今、過去の本を読み知識を得て歴史をじっくり考えてみたかっただけだ。



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自由の女神像 パリ、リュクサンブール公園

 

 だが、今は、夫の怒りのエネルギーに打ち負かされ、どの本も読みたくないし、家事すらしたくなくなった(最小限です)。それだけ夫の形相、口調が強烈だったのだ。私には、私への人格否定の攻撃と捉えられた。ふらふらと生きている。

 

 そして、当たり前のことではあるが、同時に日本と同様、フランスにも禁止されている本もあり、そもそも表現の自由は、無制限ではなかったことを知るのである。

 

 亡くなられた教師、サミュエル•パティさんの追悼集会でのマクロン大統領の式辞を今日、改めて読んでいる。とても美しい文章で感動する。

 

「私たちは文学を、音楽を、魂と精神のすべての作品を紹介します。私たちは議論を、理性的な議論を、丁寧な説得を全力で愛します。私たちは学問とその論争を愛します。あなたのように、私たちは寛容さを養います」(一部抜粋)

 

 ええ、私もそうしたかったのです。私は今、「憎悪を煽るポピュリズム」が怖いのです。だから、多くの作品を読んで理性的に自分の頭で考えてみたかったのです。

 

 それとも、そうしたかった私は「啓蒙の盲目」の罠に陥っているのでしょうか。夫は私を護りたいのだと言う。夫が怒って私を阻止する理由とは、啓蒙の盲目への警告なのですか?

 

【公立中学教師の斬首事件について】

コンフラン=サントノリーヌのテロ事件(ウィキペディア

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6