パリ徒然草

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「あなたには価値がある」共鳴、共感がなくても

 フランスの哲学者でフェミニストシモーヌ・ド・ボーヴォワールサルトルへの言葉でこんな言葉を見つけた。

「こんなにも長い間共鳴し合えたこと、それだけですでにすばらしいことなのだ」(il est déjà beau que nos vies aient pu si longtemps s'accorder)」

 

 素晴らしい。このカップルは結婚こそしなかったが、モンパルナス墓地の同じお墓で眠っている。人と人が共鳴するというのは難しいものだ。

 

 夫に私の子供の頃の話をしても、共感、共鳴を全く感じない。それは私の感覚だが、何度話してもそうなのだから、私にとっての真実だ。私の魂が言っている。私が子供の頃の話をしても、そんな何年も前の話、自分には責任ない、と言われたりもした。

 

 テロ事件や私が読もうとした本(1926年の本だ。私たちが生まれるずっと前の)へは、夫は膨大な怒りのエネルギーを発していた。夫の見せた怒りの1%の怒りを私の辛かった体験を話したときに夫から感じたら凄く救われると思うのだが、全く感じない。

 

 でも、それは、夫が西洋人だからということでなく、多くの日本人と話しても、多くの友達と話しても、そんなものであるのだろう。西洋と東洋ということではなく、日本とフランスということでもなく、男女ということでもなく、人と人は分かり合えないものなのだ。

 

 同じ人生を生きていないのだから仕方がない。同じ感性、感覚じゃないから仕方がない。寧ろ、共感、共鳴に出会えたとき、奇跡が起こったのだと感謝すべきである。

 

 私は今、「他者」との出会いを経験している。私はこの「他者」との出会いをもっと楽しむべきなのだ。「他者」との出会いこそが気づきをくれる、とフランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナス(1906−1995年)も言っていたではないか。分かり合えない他者と出会うことが違う視点をくれ、学びをくれるということである。

 

 11月14日まで、私は楽天的で、軽い気持ちだった。知る喜びの中で、生きていた。本や音楽やすべての芸術と会うのは人と出会うのと同じで、「他者」との出会いである。死ぬまで続く旅である。楽しい。エネルギーに溢れ、ポジティブだった。

 

 そんな私に夫からの「ダメ出し」が言い渡された。

 

 私は夫の興味関心を否定したことはない。自分の家族の家系図(それこそ100年以上前の人だったりする)を調べる夫に辞めろ、と言ったことも無ければ、たくさん小説を読む夫に、その時間を使って、英語やパソコンを勉強して、昇進してもっと稼いでくれ、と強制したこともない。自分がされたくないことはしない主義だ。

 

 誰かにその本を読むな、と言ったこともないし、これからもないと思う。法律で禁止されている物を除き、私はすべての人の興味、関心を尊重します。それが私のスタンダードで、人を尊重しているということであり皆も当然そうだろう、と考えていたのだが、そうではないのだろう。

 

 夫婦は同じ考えじゃないといけないのか?妻は夫の勧める本を読み、同じ思想でいろ、だなんて、それこそ、いつの時代に生きているんだ?。

 

 離婚をチラつかせ強制するのは、女性差別であり、私の人格への迫害ではないのか? 26歳で亡くなった童謡詩人、金子みすゞの人生を思った。

 

 さらに夫によるこの2ヶ月間の私の人格への否定...なぜここにいるのか? そこまで言うなら夫も、別の人を選んだ方が幸せなのでは?と悲しくなる。かといって、私としても、アンドロイドじゃないから、頭の中をすっかり変えるのは、無理だ。

 

 差別や迫害、恐れ、批判はネガティブで、重いエネルギーを発している。重いエネルギーを受け取れば、受け取るほど、私は、自分の過去のネガティブな記憶にアクセスし、ここ10日間、眠れなくなった。

 


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 11歳のころ、自分に全く価値がないと思っていた。嘲笑され人権侵害されても力なく自嘲して、その状況を受け入れ、権力の、声の大きな方に従い、自分が悪いことをしたのだと受け入れて生きていた。

 

 「ロミオとジュリエット」を選んだ私が悪いの、なんて、ばかで、駄目な、TPOをわきまえない私なのかしら。教師はスケープゴートを作り、大勢を笑わせクラスをまとめる能力に長けていた。人気が高かった。それは、ある意味、ポピュリズムに似ていた。

 

 最初は、一つの小さなことだ。だが、それが積み重なる。いくつもの自分を否定して、殺して生きていると、自分がイカのように透明人間のようになっていき、やがて生きている意味が分からなくなっていく。自分の興味、関心、発言すべてに自信がなくなっていく。何もしなければいいと無気力になくなっていく。何をするのも不安で不安で、人の顔色を伺ってそして何も発言できなくなる。

 

 そして、こう思い始める。私など、いなくなった方がいいのでは? それが人類のためなのでは? どうせ、いてもいなくても同じだし。

 

 学校の教室で、「私のような、価値のない者が他の動物の命を食べたり、森林伐採に加担したり、二酸化炭素を排出して地球を汚して生きるのは大変に申し訳ないので、自殺します」ーそんな、へんてこりんな遺書を書いていたことを思い出した。

 

 あの頃、私に生きる力をかろうじて与えてくれたのも、書物や音楽だった。


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 そして、今、そうじゃない、と、私は自分に、言う。あなたは、そこにいるだけで十分価値がある。あなたの興味、関心、感性は、すべて尊いのだ。人に否定されても、失敗しても、誰にも評価されなくても、関心を持ったあなた自体が否定されるべきじゃない。誰だって、他人に否定されるのではなく、尊重されたい。でも、世界中の人があなたを否定するとき、せめて自分で、自分を認めよう。

 

 人間には生まれながらにして価値がある。私の魂には価値がある。同じようにあなたの魂にも価値があります。

 

 ああ、今日は眠れそうな気がする。