パリ徒然草

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パリのテンプル騎士団の足跡を探してみた

(約1年前のブログ)


 現代にもテンプル騎士団は存在するのだろうか。陰謀論界隈のYou Tubeやブログでは、2月初めに数回起きた陸上自衛隊北富士演習場(山梨県山中湖村など)の山火事について“とある噂"が流れているのだが、その情報源は自称「テンプル騎士団」という話を聞いた。さらに、アメリカのトランプ大統領テンプル騎士団の末裔から支援されていると書かれたブログもある。(こうした未確認情報は意図的に流されているかもなので、注意が必要である)

 

 テンプル騎士団はもう存在しないだろう?と思って調べてみると、米ミネソタ州ケンジントンで発見されたケンジントン・ルーン・ストーンによって、テンプル騎士団コロンブス以前にアメリカ大陸に来ていた説に触れたテレビ番組を紹介するブログを見つけた。

 

https://arekorebibouroku.hateblo.jp/entry/2017/11/14/094504

 

  他にも、You Tubeではスコットランド生まれの講演家で作家のエハン•デラヴィさんなど同様の主張をしている人たちがいた。

 

 中世ヨーロッパの3大騎士団とは、テンプル騎士団ドイツ騎士団、そしてマルタ騎士団の3団体という。マルタ騎士団は現在も約120カ国で活動している。さらに、「ハプスブルク騎士団」復活という毎日新聞の最近の記事も見つけた。ならば、テンプル騎士団が存在していてもおかしくはないのかもしれない。

 

 ダン•ブラウンの世界的ベストセラー「ダ・ヴィンチコード」や大ヒットアニメ「ワンピース」などフィクションの創作源という意味でも、「テンプル騎士団」は、大きな役割を果たしてきた。人々を惹き付ける物語や歴史を持った組織なのだ。

 

 前置きが長くなったが、パリでテンプル騎士団(フランス語読みではタンプル騎士団、私のこのブログでもタンプルになったりテンプルになったりしているが、同じです)の足跡を探してみた。

 

 まずは、地下鉄11番線のタンプル(TEMPLE)という駅の名前にその名残りがある。通りの名前にもタンプル通りがある。


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【パリの地下鉄TEMPLE出入り口】

 

 そして、この地下鉄から徒歩3分のDupetit-Thouars通りに、この地域の昔の地図が示されている。

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 L'enclos du temple (ランクロ デュ タンプル)として示された地図の範囲の広さに驚く。すべてテンプル騎士団の領地だったのだろう。この場所は12世紀のフランスでは国王をしのぐ金持ちと言われていたテンプル騎士団の本拠地であった。


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【地図を見る限り、この一帯すべてがテンプル騎士団の領地だったことになる】


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【地図の拡大図】

 上の写真の地図の右下に「L'enclos du temple (ランクロ デュ タンプル) en1793」と書かれている。L'enclosは、「囲い」の意味。ここは、2つの塔、宮殿、教会、修道院がある壁に囲まれた小さな都市だった。1793年の地図ということで、1793年まではまだ建物が残っていたということだろう。

 

 その再現3DをこちらのYou Tubeで見ることができる。1550年のテンプル騎士団本拠地跡の再現3Dだ。

 

https://youtu.be/3pzUz6ACzTo

 

 残念ながら、この地図や3Dと見比べる限り何一つ当時の建物は残っていないようだ。

 

 現在この場所にはパリ3区の区役所とスクエア デュ タンプル(Square du Temple)という公園がある。パリ3区の区役所前は、テンプル塔(天守閣)があったとされる場所。下の写真は先程の地図の一部を拡大し切り取ったものだ。

 

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【ピンク色が現在の区役所。その右に黒く描かれている正方形がLA TOUR(ラ トゥール、塔)すなわちテンプル塔である】

 

 当時のテンプル塔の形跡は地面に示されている。若者がスケートボードや自転車で通っていたり、気にする人は誰もいない。


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【上の写真右手がスクエアタンプル公園。地面に銀色の点線でテンプル塔跡地を示している】

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【右手が区役所。石畳の上の銀色の線が見えるだろうか】

 

 近くにテンプル騎士団にまつわる歴史の説明板(フランス語)を2つ見つけた。


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 テンプル騎士団は第1回十字軍の終了後の1119年、エルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。テンプル騎士団構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第1次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たした。

 特筆すべき点として、騎士団が保有する資産の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。(ウィキペディアより)

 「13世紀になると、テンプル騎士団は非常な勢力をもち、巨大な富を獲得し、各国にその本部をおくようになった。とくにフランスでは、各地に修道院と城を兼ねた1万の拠点をもち広大な領土を擁し、騎士たちは事業を行って、国王に金を貸していた」(秘密結社の手帖、澁澤龍彦、p94)

 

 テンプル騎士団がパリに居を構えたのは1140年ごろらしい。テンプル騎士団が聖地を失った後、13世紀ごろ、グランドマスター(総長)が財宝とともに現在のマレ地区に身を落ち着け、首都の中に、城壁に囲まれた広大な街ができた。(説明板より)

 1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の策略によってテンプル騎士団のメンバーは逮捕され、壊滅状態となり、1312年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。

 テンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーらは、パリ市のシテ島の刑場で、生きたまま火あぶりにされた。ジャック・ド・モレーは、亡くなる前に無実を叫び、フランス王フィリップ4世と教皇クレメンス5世らを呪ったと伝えられる。二人は同年中に急死した。

 

 1312年にテンプル騎士団が廃止されると、この塔は聖ヨハネ慈善修道会(正式名称「エルサレム、ロードス及びマルタにおける聖ヨハネ主権軍事病院騎士修道会」通称「マルタ騎士団」)に分与された。

 

 フランス革命後は修道会が廃止され、革命政府の所有物となり監獄として使用された。

1792年8月13日、ルイ16世、王妃マリー・アントワネットなど王家がタンプル塔へ幽閉された。ルイ16世は、1793年1月21日のギロチンによる斬首刑まで裁判出廷のため2回外出しただけだった。王妃マリー・アントワネットも同年10月16日にギロチンで亡くなった。

 ルイ・シャルル王太子が1795年にタンプル塔の一室で病気で亡くなり、翌年にマリー・テレーズ王女がオーストリアへ亡命した。 

 

 その後、タンプル塔は修道院、兵舎などに利用された。帝政期、ナポレオン1世は巡礼地となることを恐れて、1808年に取り壊しを命じた。1810年タンプル塔は取り壊された。1862年に3区の区役所が造られた。(説明板とウィキペディアより要約)

 

 佐藤賢一氏の著書「テンプル騎士団」によると、「最終的に取り壊されたのは1853年。•••1848年から取り壊しまでは民兵組織である国民衛兵隊の兵舎に使われていた」とあるので、1853年までは、残っていた建物があるのだろう。

 

 スクエアタンプル公園にも何か残っていないかと歩き回ってみましたが、見つけることができませんでした。水辺もあって、花も咲く美しい公園。


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【関連記事や動画】

タンプル塔 ウィキペディア

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E5%A1%94

テンプル騎士団 ウィキペディア

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3

 

テンプル騎士団アメリカ大陸(宗教学講座)

https://youtu.be/kIq4CbxoGJA

 

パリのサン•メリ教会にテンプル騎士団のバホメット?私のブログ

https://clairefr.hatenadiary.com/entry/2021/02/12/205933