パリ徒然草

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澁澤龍彥を再発見 

『6月8日(水)ラコストに近づく。(中略)オレは「丘にのぼれは愁いあり」(蕪村)みたいに草を摘んだ。どこへ行っても草を摘む気になれないが、ここでは夢中になって草を摘んだ。束にして龍子に持たせた。(中略)有意義な一日であった。生涯の思い出になるだろう』

澁澤龍彥著・巖谷國士編『滞欧日記』(河出書房新社

 

 引用です。素敵な日記。情景が目に浮かぶ。宝物の時間を感じる。喜びの感情が短い文章に溢れている。渋沢龍彥の四度のヨーロッパ旅行の記録をまとめた『滞欧日記』からの抜粋である。

 

 私はまだラコストに行ったことがないけれど、南フランスの陽光が目に浮かぶ。ラコストには、18世紀にサド公爵が先祖伝来の領主として、住んでいた城がある。

 

 日本に住む友人が数ヶ月前、日本から送ってくれた澁澤龍彥の「秘密結社の手帖」。私にとっては、拡がりを感じる本となった。この本に、触発されて、ブログを書くのは、今日で3回目なのだ。たった一冊本を送ってくれただけで、私の人生を豊かにしてくれたことを感謝している。

 

 フランスにおいて、日本語の本を手に入れるのは、そう簡単ではない。パラパラとめくって買ったり借りたりするチャンスは、あまりない。

 

 私が澁澤龍彥を知ったのは、高校生だった。翻訳者として、出会った。ジャン・コクトー、サド。大学生のときは、バタイユの翻訳者だった。私の中で、澁澤龍彥は、フランス文学翻訳者でフランス文学研究者のイメージだった。友達から「秘密結社の手帖」を受け取る去年の秋までは。

 

 そして、澁澤龍彥は私の中で、バランスの取れた評論家になった。秘密結社についての論じ方を見ても、現代のメディアが陰謀論や「Qアノン」を論じるのと違った奥深さと知性とバランスの良さを感じる。

 

 「秘密結社の手帖」を読んだ後、私は、澁澤龍彥についてウィキペディアで読んだ。そして、電話で、送ってくれた友達に言った。

「有名人って、大変ね。こんなに、プライベートのことが書いてあるなんて。私は、特に、それを知りたくなかったけど」

 

 でも、ウイキペディアのおかげで、「サド裁判」というものも、さらには、澁澤が、三島由紀夫の小説のモデルになっていることも、知ったのだ。

 

 私は、ほんの数冊の日本語の小説を日本からパリに、持ってきていた。最近、ブックオフに売ったし、今では、10冊余りしかないと思う。なんと、私が持っている三島由紀夫の小説「暁の寺 豊饒の海(三)」の中に、澁澤龍彥がいた。186ページ、今西康、ドイツ文学者として。この本、高校生で買った本だと思う。


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 『今西康はドイツ文学者で•••戦後はいろんな文章を書き散らし、性の千年王国を夢みていた。(中略)蒼白な神経質な顔立ちながら、附合いがよくて、多弁で、財界の人たちからも左翼文士からも同じように興がられていた。(中略)貴族的な挙措で、汚いことをわざと言う彼のギャラントリーは、女たちに好かれた。彼を「変態」と呼ぶ人間は、自ら封建的遺物たることを証明するようなものだった』「暁の寺 豊饒の海(三)」三島由紀夫(新潮文庫)

 

 

 三島は澁澤の『サド侯爵の生涯』を下敷きにして演劇史上の傑作、『サド侯爵夫人』を書いた。私は『サド侯爵夫人』を本で読んだだけだが、夫は、随分前に、パリで、その演劇を見た、と言った。(残念ながら、二人とも昔過ぎて全然内容を思い出せない)

 

 澁澤龍彥が初めてヨーロッパへ旅立ったのは1970年8月31日のことだった。羽田空港で澁澤を見送る人々の中には三島由紀夫の姿があった。これが澁澤と三島の別れとなった。三島はこの年の11月25日に自決した。

  

 1冊の本が、拡がりをくれた。澁澤を知ることのできた本とウィキペディアと友達に、ありがとう。私も、近く、ラコストに行ってみよう。


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【写真は、本日、パリで撮影】

 

澁澤龍彥 ウィキペディア

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%81%E6%BE%A4%E9%BE%8D%E5%BD%A6

 

雑誌サライ ラコスト城を訪ねる

https://serai.jp/tour/93677

 

You TubeNHKの「澁澤龍彥 眼の宇宙」も見ました。