エッフェル塔の頂上に雲がかかっていた。「雲が低く垂れ込めた空」と表現するのかな。かろうじて雨は降らないが、晴れ晴れした気持ちにもなれないお天気だ。
初めてパリに来たとき、ここからあまり遠くないホームステイ先で、バスでしばしばトロカデロを通ったことを思い出した。
それから、セーヌ川沿い歩きながら、オンフルールに一人旅したときのことを考えた。朝からオンフルール方面行きの列車の時刻と料金、ホテルを見たせいだと思う。行く予定は全くないが夢を見るのは自由だ。
朝8時半ごろ発のサンラザール駅発の列車は11時過ぎにはドーヴィルに着く。2時間足らずなのに、海のそばは、パリと違って、空が高くて、空気が澄んでいて、びっくりする。
7年ほど前の一人旅の記憶だろうか。ドーヴィルからバスで移動し、オンフルールの港街を歩いていたら、電話が鳴って、それは友達からだった。友達はパリの郵便局にいると言った。
ときどき、後ろで郵便局員の声が聞こえた。私は電話の間中、オンフルールの港の周りを歩き回った。パリの喧騒とともに。その電話の間中天気が良かった。港の景色が美しかった。
電話を切った後、空は急に曇って雨が降り出した。港そばのレストランに駆け込んだ。結局、友達は来なくて、翌朝も、やっぱり港の見えるカフェで朝焼けを見ながら朝食をいただいた。
記憶というものは曖昧だ。一昨日何を食べたか忘れているのに、昨日のことのように何年も前の記憶を思い出す。エッフェル塔周辺やセーヌ川沿いを歩きながら、オンフルールの記憶を思い出す。不思議だ。
記憶について考えさせられる小説にカズオ イシグロの「忘れられた巨人」がある。忘れ去った記憶を探す物語。ずっと霧の中にいるような小説なのだが、老夫婦の愛が際立っている。その小説やカズオ・イシグロという作家を私に大絶賛したのは、夫だった。夫はカズオ・イシグロの著作を全部読んでいた。
私もあれから夫が私にしてくれたことを良く考えた。私のフランス語を訂正してくれたり、駅まで送り迎えに来てくれたり。当然のように思っているが、ありがたいことだ。
「他人から何かしてもらうことは、めったにないことなんだよ、有り難いことなんだよ」というところから「有り難い」、それがくずれて「有り難う(ありがとう)」となった、と読んだことがある。
さあ、今日からまた頑張ろう。
【閉まったままのパリオペラ座近くのブラッスリー。飲食店が開いていないのは、トイレ不足という意味でも痛い】