パリ徒然草

パリでの暮らし、日本のニュース、時々旅行、アート好き

澁澤龍彦と三島の友情 「豊饒の海 第三巻 暁の寺」を読んで④

豊饒の海 第三巻 暁の寺」を読んで③

https://clairefr.hatenadiary.com/entry/2021/12/01/200837

 

の続きです。


f:id:clairefr:20211229210040j:plain

 

 さて、三島由紀夫のこの小説の登場人物で、性の千年王国「柘榴の国」について語ったドイツ文学者、今西康は、翻訳家、評論家、作家の澁澤龍彦(1928年-1987年)がモデルだと知られている。


 秘密結社や黒魔術についてのエッセイ「秘密結社の手帖」(1966年)「黒魔術の手帖」(1961年)の著作もある澁澤龍彦。私は、もしかしたら「柘榴の国」に類したようなことを澁澤龍彦が三島に実際に語ったこともあったのだろうか、と想像してしまった。

 三島は澁澤の先輩であり友人だった。澁澤の「マルキ・ド・サド選集」の序文を1956年に三島に依頼したことから、澁澤と三島の交流が始まり、1970年澁澤がヨーロッパ旅行に行く際、三島は空港まで見送りに行っている。それが最後の別れとなった。


f:id:clairefr:20211229210116j:plain

 
 澁澤は三島の死に際し感動的な弔事、追悼文を送っている。その弔事は最近になっても、ブログや本で取り上げられたりしている。

 

 澁澤龍彦三島由紀夫への弔辞

https://www.yoshiepen.net/entry/20110218/1298041755

 『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(中川右介著、幻冬舎新書)からの試し読み

https://www.gentosha.jp/article/17007/

 

 

 二人の関係を知り、澁澤龍彦の著作も読んだ今だからこそ、作中人物である弁護士の本多が文学者の今西についてあれこれ思う心の声がまるで、三島の澁澤への心の声のようにも読めて面白い。でも、これをストレートに置き換えると三島は澁澤の悪口ばかり言っていることになる。

 

 私は、この小説を読みながら、書かれる側の立場、澁澤の立場になって、自分が澁澤だったらどう思うだろうか、と考えてしまった。

 

「••••女の腿に青白く痩せた男の腿がまつわりついていた。すぐ眼下にその二つの、決して生命に充ちあふれているとはいえないすがれた肉の、水棲動物のようなゆるやかな運動を示している接点が見えた。..../さるにても今西は、憐れな知識人の腿を、無恥そのものの放恣でそこに投げ出していた。すべては彼の言説と等しく、痩せた尾骶骨のあらわれた平たい尻の、さびしい漣のような顫動がえがき出す、つかのまの幻にすぎなかった。その誠実の欠如が本多を怒らせた。/これに比べれば、槇原夫人は一つ一つの呻きまでが真摯だったという他はない。....」

(「豊饒の海 第三巻 暁の寺」204ページ)

 

 嫌である。

 

 美文でも、天才作家に書かれるのであっても、ベッドジーンをこっそり覗かれて、「生命力に充ちあふれているとはいえない」「憐れな知識人の腿」「誠実の欠如」とか書かれ最後は焼け死んでしまう役のモデルになりたくない。

 

 ウィキペディアによると、三島由紀夫暁の寺』のドイツ文学者今西康は、澁澤をモデルにしたが、物語のラストで、同衾していた戦争遺族の中年女性(椿原夫人)ともに、戦後の「バッド・ソウル」を象徴する人物として、(神話的発動により)、「焼灼」(しょうしゃく)され亡くなる、とある。

f:id:clairefr:20211229210159j:plain


 澁澤龍彦は日本の戦後の「バッド•ソウル」悪魂だっただろうか。私はそうは思わない。澁澤は人間精神の暗黒面に光を当て、紹介し、記録しただけだ。

 

 ふと、私の好きなアルノー・デプレシャン監督の映画作品「キングス&クイーン Rois et reine (2004)」、著名な作家の娘が父親の遺稿を編集者に渡す際に、自分の悪口、批判が書かれているページだけ火で燃やして渡すシーンを思い出した。


 女優のエマニュエル•ドボス演じる、あの美しい娘に比べると、澁澤は、とても、寛容な人だと思う。私なら、三島をゆるして、感動的な弔事を贈れるだろうか。

 

 澁澤は自分が三島の小説の中で、性行為を覗かれ、肉体の悪口を書かれても、焼かれ灰になっても、ずっと後のエッセイ「ランプの廻転」(『思考の紋章学』に収録)の中でも三島への尊敬を忘れていない。

 

 一方、この小説に関連して、澁澤は、自分は三島の前ではただのディレッタントである自分を隠していた、自分はなんのルサンチマンもない好事家であるのを三島は気づかなかったと述べている。

 

 ルサンチマンとは恨み(の念)。ニーチェの用語では、強者に対し仕返しを欲して鬱結(うっけつ)した、弱者の心である。

 

 澁澤の言いたかったことは分かる気がした。澁澤の著作を読んでいてもルサンチマンは感じない。博識だが、少年のような好奇心を感じる。変わったものを集めて子供のように喜んでいるイメージなのだ。

 

 結局、ルサンチマンは三島の側にあったのだろうし、そして、三島の持っていた隠れたルサンチマンが私が思春期にイギリスのパンクミュージックを聞きながら三島を何冊も読むことのできた理由でも、あるのかもしれない。登場人物の今西康ですら、三島がつくった世界の一部であるとも言えるのだろう。

 

 「焼灼」とは、火で焼く治療である。小説の中で今西と戦後夫人は焼け死ぬ。本多が建てたばかりの別荘の建物とともに。


 治療のために燃やされるべきは、人間精神の暗黒面についての書物や誰かへの批判や悪口だろうか。それとも、ルサンチマンの方だろうか。

f:id:clairefr:20211229210248j:plain

 

参照記事

三島と澁澤

 https://gamp.ameblo.jp/poaa/entry-10009859778.html

 "澁澤龍彦 - Wikipedia" https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%81%E6%BE%A4%E9%BE%8D%E5%BD%A6