パリ徒然草

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小説という旅 焔の癒やし「豊饒の海 第三巻 暁の寺」を読んで⑤

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 この小説を再読し始めた今年5月、私は、4月に思いがけず伯母を失くしたばかりだった。この小説に惹きつけられたのはそのためで、第1巻や第2巻ではなく、第3巻を深く読もうと思ったこともそれと関係している。


 伯母は20カ国くらい旅行していて、中でも、インドが心に残ったと言っていた。「暁の寺」には、主人公の弁護士の本多がインドを旅するシーンがある。当時、著者の三島由紀夫自身インドを旅し、ベナレスに衝撃を受けたと知られている。

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 伯母もこの本多と同じように、個人でガイドを1人雇った、と言った。主人公の本多と違って、伯母はインド人のガイドに大満足していた。そのガイドの気質、性格も含めて、その旅で最も美しいものを見たように私に語った。

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 小説の中でインドへの旅を読めることは、喪に服することだった。三島の書いた美しい描写の一語、一句が心に滲みた。伯母にもっと聞いておくべきだった。その体験談をもう聞けないからこそ、約50年前に書かれた三島の流麗な文章が海を越えた私の手元に書物としてあることが貴重な必然に思えたのだ。

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 「第3巻 暁の寺」の第一部は1952年(昭和27年)のことで、以前に簡単なあらすじを書いた。第二部はそれから15年後の1967年(昭和42年)の話である。戦時中の弁護士の本多は時間ができ、輪廻転生を研究していた。日本は終戦を迎え、本多は58歳となった。

 本多は、土地所有権を巡る裁判の弁護の成功報酬で多額の金を得て、富士の見える御殿場に土地を買い別荘を建てた。思いがけず富と名声を得た本多は文化人らを招いて、別荘開きやプール開きのパーティーをする。


 小説の最後、プール開きのパーティーの夜に本多が建てたばかりの別荘が焼けるシーン。本多はインドのベナレスで見た、ガンジスに映っていた葬りの火と重ねる。



 「さっきから、この情景をどこかで見たことがあるという考えにとらわれていたからである。/焔、これを映す水、焼ける亡骸•••それこそはベナレスだった。あの聖地で究極のものを見た本多が、どうしてその再現を夢みなかった筈があろうか。」

(「豊饒の海 第3巻 暁の寺」p368より引用)


 私は読みながら、伯母の遺体が焼かれていく情景を思い浮かべた。

 被爆者として差別され、一生独身で定年退職後も働いていて、最近は体の調子が良くなくて、一人で風呂の事故で溺死してしまった伯母の人生を思い、いろんな問いが交錯していた時期だった。コロナの影響もあって遺体が燃えていく瞬間そばにいいた人はとても、少なく寂しいものだった。もちろん私はそばに行けなかった。

 遺体とともに、おばが晩年に力を振り絞って描いていた金銭的価値のない水彩画が一緒に、燃やされた、と聞いた。伯母は晩年、私への手紙の中で、幸福の象徴としてミモザの花を描いたと書いていた。


なぜ、金銭的価値がないからって真っ先に燃やしてしまうの?

 

 私は遠くにいて何もできず、今、帰国しても新型コロナで14日間隔離で、何をするにも間に合わない。行き場のない怒り。


 私の怒りは、この小説の主人公、本多の行間に感じる怒りと似ているところがあったように思う。本多は社交の場にいても、心から楽しんでいるようには思えない。本多は拝金主義の当時の社会を、自分はその恩恵を享受しながらもニヒルに見ているところがあるように思う。老いることの醜さを心の中で、しばしば、指摘する。58歳で恋するのは、18歳の月光姫である。


 理想の美しい世界があるから、怒りが湧くのだろう。でも、本当は、今を生きている、生かされていることに比べれば、些末なことでしかないのだ。

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  燃える炎。それはイメージであれ、リアルの小さな炎であれ、癒やしでもある。火で燃やすということは癒やしや浄化の効果があるのだなあとキャンドルの火や暖炉の炎、線香から上る煙を見ながら、心から思うことが何度もあった半年だった。


 

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 私はインドには行ったことがない。

 一方、実は、私は20年くらい前、タイトルの「暁の寺」に行ったことがある。タイにあるワット•アルンというお寺である。たまたま、仕事の関係でタイに、行ったときのことだった。


 私は昔の日本のアイドルが着るような、様々な色の入ったパステルカラーの丈の短いワンピースを着ていて、そんな格好でここに、来たことを後悔した。建物中央の細長い階段が急で、そこを登るとき、ワンピースのスカートが風に舞った。この小説のことは頭の中にあって、私の脳内にあった寺のように暁色でないことが残念だった。小説の中では朝焼けの時間にこの地に行ったのだが、私は青空の下、グレー(ネットで見ると建物は白だが、私の記憶ではグレーだった)の急な階段を登った。

 インターネットで180度のこの寺を見ることのできる時代になった。

http://watarun.in.th/watarun360/

 記憶は曖昧だ。建物の形を全く覚えていなかった。写真を撮ったはずだが、どこにあるか分からない。ただ、私が三島の小説を読んで描いていた暁の寺のイメージと現実の暁の寺は全然違った、ということをしっかり、覚えている。


 旅とはなんだろう。タイのバンコクの寺まで旅しても私は大した記憶がない。三島の旅と違って、私自身にすら大したものを残してくれていない。


 バンコクを訪れるよりも前、10代で初めてこの小説を読んだせいで「暁の寺」は、この小説のように常に朝焼けか夕焼けの中にあって、私の脳内にある。実在の暁の寺以上にこの小説の方が私には、強く強く、その存在を感じられたのである。


 時空を超えてこの小説を今の私に届けてくれた方々に、感謝したい。

 

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 https://clairefr.hatenadiary.com/entry/2021/06/07/162234

 

 【前半の4枚は日暮れのパリ。2枚目の写真は、モンマルトル。1,3,4枚目はエッフェル塔の向こうの夕暮れ。後半の3枚の写真は、すべて日が沈んでいくパリの近郊にあるソー公園。11月末。晩秋独特の趣きがあった。】