パリ徒然草

パリでの暮らし、日本のニュース、時々旅行、アート好き

太宰治が嫌いで言いに行った三島由紀夫  三島ブーム?➅

ー以下引用ー

 『すなわち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。

「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」

その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。

しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、だれへ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ』(三島由紀夫「太陽と鉄•私の遍歴時代」)

 

 

 三島由紀夫太宰治の文学が嫌いと公言していたことは良く知られている。上のやり取りがあったのは、昭和21年12月、三島由紀夫が21歳の大学生、太宰治が37歳だった。太宰の編集担当者だった野原一夫が後輩の学生に頼まれて太宰を囲む会を設けたときのことだった。

 

 私自身は太宰治の文学を嫌いというほどではない。だけど、なぜだろう。中学生のとき読んでいただけで、高校生になったらもう読みたくなくなってしまった。一番印象に残った太宰の小説は「グッド・バイ」という未完の小説だった。またいつか読みたくなる日が来るのかも…。

 

 自分が発した言葉というものは自分に返って来るのかもしれない。三島自身も見ず知らずの青年に面と向かって「あなたの文学は嫌いです」と言われるようになり、こういった「文学上の刺客に会うのは文学者の宿命のようなもの」としている。

 

 太宰の編集担当者だった野原一夫氏の記憶は三島由紀夫が書き残したことと少し違っていて、太宰はこの時、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と言ったという(野原一夫「回想 太宰治」)

 

 嫌いなら来なけりゃいいじゃないか。うん、そう。普通はそう。

 

 まあ、でも、そのおかげで、三島由紀夫はこの出来事から15年後、このエピソードを書けたのだし、まあ、それでいいんだろう。起こったことはすべて必要だから、起こっているのだろう。

 

 三島由紀夫自身が自分を分析している。

 『もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。

従って、多くの文学青年が氏の文学の中に、自分の肖像画を発見して喜ぶ同じ時点で、私はあわてて顔をそむけたのかもしれないのである。

しかし今にいたるまで、私には、都会育ちの人間の依怙地な偏見があって、「笈を負って上京した少年の田舎くさい野心」を思わせるものに少しでも出会うと、鼻をつままずにはいられないのである。』

(三島由紀夫「太陽と鉄•私の遍歴時代」)

 

 もし、誰かを嫌いだとしたら、なぜ嫌いなのか、少し自分を深掘りしてみるのもいいのかもしれない。

 

 『「嫌いっ!」の運用』(2020年)の著者、脳科学者の中野信子氏によると、嫌いーというのも、大きなエネルギー。生理的嫌悪は、自己防衛反応やセキュリティ反応のこともあるという。

 

 

 女性と心中した太宰治。若い男性と割腹自殺した三島由紀夫。その最期もある意味似ているのだ、と今回いろいろ考えて初めて知った。

 

 太宰治は、二人の邂逅から約2年半後に心中しており、同じ文学者として、三島由紀夫が影響されてしまったという可能性はないのだろうか。嫌いだったのは、無意識的に“危険”を察知して、見たくなかった可能性はないのだろうか。

 

「氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家」とも言っているし、三島由紀夫自身、同族嫌悪かもしれないと気づいている節がある。

 

 ちなみに私自身は、三島由紀夫を知れば知るほど、You Tubeで話すのを聞いたりすればするほど、三島由紀夫の人物の印象は良くなった。喋り方もいい。ダンディの象徴だったのも頷ける。真摯で真面目、愛らしい人物というイメージである。

 

 基本的には気遣いの人で多くの人から好かれていそう。21歳の三島由紀夫の写真がとても可愛い。すっかりファンである。

 

「愛するということにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。」(三島由紀夫の名言)