パリ徒然草

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家事を巡って夫に腹を立てた私 怒らない自分になるには?と考えた

 休日、夫が家事を全然しないので、怒ってしまった。お願いしても、全然しないわけではないのだが、全く観察力がなくトンチンカンなことをされたり、これまで何度も言ったはずなのに、最後までしてくれなかったり、あー、これまで何度も言ったでしょ、今まで説明したことは何だったの、という虚しさに襲われる。

 

 少ししかなかった皿を洗うなど良く見える部分はしてくれても、掃除、フキンを洗う、皿の片付けなど小さな、でも大事な仕事をしてくれない。台所、超狭いから片付いてないと次の作業ができないのに。

 言われたことだけして後は、見て見ぬふりである。つまりいろいろやってもらうためには全部、言葉に出してお願いしないといけない。

 

 私たちの会話はフランス語なので、これまでにも何度も言ってきたことだから言わなくても、ピンと来て、私がやっているのと同じように、してほしい。そのために私はこうして欲しいと思っている、と何度も伝えて来たではないか。

 私が忙しく、ご飯を作っている間も、隣の部屋でテレビのニュースを大きな音で見てのんびりしている。私の料理中にニュースで聞いた話をフランス語で話しかけて来ることもある。

 フライパンの火を気にしながら、包丁を手に野菜を切っている。集中して料理しているときにフランス語で話しかけるな、と何度も言っているではないか。こっちは聖徳太子じゃないんだ。あれもこれも同時にしながら、その質問に答えられない。そして、今は、答えられないよ、と言ったことが自分の話を聞いてくれない、興味がないんだ、とスネられたことすらある。

 でも、怒るのは何の解決にもならない。どんな場合も人間関係を悪くするばかりだ。怒る自分はかっこ悪いとも思う。

中田敦彦氏のYouTubeの【アンガーマネジメント】を聞いた。

https://youtu.be/fjuYr1pj-Bo

 

 非常に素晴らしい動画で非常にためになった。怒りそうなときは、まず、1,数値化 2,合言葉(大丈夫などと口に、出して言う) 3,深呼吸である。そして、長期の改善点として、1,記録、2,分類、3,自己受容。

 怒ったことを記録しろ、とある。だからこそ、今、ここに書いている。書くことが省みることになる。

 数値化と分類もしてみた。今回の問題、振り返ってみると問題の大きさで言うと、全然大したことではない(10が大問題だとすると1以下だ)。俯瞰で見ると、笑えるレベルだ。良くこんなことを書いて人目に晒して恥ずかしくないなとも思う。

 

 中田敦彦氏の言う分類でも考えてみる。変えられるー変えられない、重要ー重要でない、という座標軸がある。この問題、他人(夫)の行動についてだから、変えられない、全然重要なことじゃない、とすぐ思った。相手を変えるのは難しい。自分が変わる方がずっと早い。

 

 夫は食はどうでもいいと考えているそうだ。休日の食事がどこかで買ってきた出来合いのものでも、冷凍食品でも問題ないと言う。

 夫の休日に、コロッケという時間のかかるものを作ったのは私だ。フランスでは揚げるだけになった冷凍食品のコロッケは見たことがないし、コロッケが売っているコンビニもないので、日本食レストランで買う、食べる以外は、自分でジャガイモから作るしかないと思う。

 

 フランスでは冷凍食品を使うのも一般的だ。義母も良く使う。私自身が冷凍食品をあまり好きではないので、ほとんど使わないが、私の負担にならない程度に、手を抜いて料理を作り続けるべきだ、最初はそれが解決策だと思った。

 

 翌日の今日は、簡単に済まそうと、生姜焼きとリゾット、サラダにした。それでも、結局、冷凍食品にはしたくないのだ。生の食材を使いたい。その方が体にも良さそうではないか?

 

 だから、考えてみると、自分のわがままである。自分が食べたいから作っただけだ。夫のためではない。一人分作るのも二人分作るのも大して手間は変わらない。むしろ、一人で寂しく食べるより一緒に、食べてくれる人がいること、日本食でも喜んで食べてくれることを感謝してもいいはずだ。

 

 いや、でもそういうことだろうか。

 もっと深堀りした方がいい。

 一人だけがそれをし続けないといけないという不平等に怒っていたのは確かだ。夫はテレビを見て、私だけが料理していた。何だか、使用人になった気分だった。

 群衆の中の孤独という言葉があるが、夫が不在で、私が料理するときは一人の作業に何も問題を感じない。孤独を感じない。すぐそばにいて一人はゆったり過ごし、一人だけが忙しく立ち回っていることに逆に孤独を感じた。

 

 一緒に、楽しみたい、もっと料理を作る工程にも興味を持ってほしい、と私自身は思っていたように思う。共同参画してほしいという思いがある気がする。男女共同参画社会、どこかで聞いた言葉だ。

 

 私が逐一命令を出し、夫が細々とその言葉に従う形を思い描いていない。だから、言われたことだけしかしないことにイラッとしているのだ。

 私が1-2時間立ち回っている間のたった5分だよ、そのくらい集中して、心を傾けて手伝ってくれないかな?と、思ってしまった。頼まれたとき、忙しそうだな、邪魔しないようまずは見守っていよう、状況を把握しようと考えてよく観察してくれないかな、と思ってしまった。10歳の私が母を手伝っていたような行動ができないかな、と思ってしまった。

 

 手伝うとは、自分が何かやるのを大きく見せることじゃない。黙ってタイミングを待つのすら、手伝っている。

 

 そもそも私だけが延々と家事をしているのは、おかしいと、夫自身に気づいてほしかったという気持ちもあった。私の中に理想があったのだ。

 阿吽の呼吸で分かり合い、主体的に同じ作業に、すなわち美味しい物を作ることへの追求に楽しみながら、興味を持ってほしいという理想。子供のころコロッケ作りは母と一緒にしていたので、一緒に作業することへの郷愁もあったかもしれない。

 理想というのは厄介なものだなあ。他人の心に何かを期待するなんて、無理な話だ。人の興味は人それぞれである。夫は料理はどうでも良くてダラダラ過ごしたかったのである。

 

 怒りというのは二次感情でその下には一次感情である、悲しみ、困惑と虚しさがあると動画でも言っている。何度も同じことを言ったのになぜ分からないの?という虚しさと、なぜこんな行動するかな?という困惑。私ってまるで家政婦みたいね、という悲しみ。

 

 ちなみに、私はもともと怒りっぽい性格だったわけではない。日本にいるころ、子供のころ、怒ることは少なかった。むしろ、大人しい、意見を言わない、我慢するタイプの人間だった。私の人生の中で怒ってしまう相手はほとんど夫だ。やはり国の違い、価値観の違いによる困惑はあると思う。生まれた環境も育ちも文化も違う。

 

 怒りとは、甘えでもあるそうだ。私に言語のハンデがあるから言わないことも分かってやってくれ、というのはある意味、甘えかもなあ、自分で書いてて自分で読んでて思う。

 

 怒るのが甘えなら、子供のころ甘えて来なかった分、今、甘えさせてもらっているのかもしれない。

 ここまで書いて気づいたことがある。私の怒る理由が、子供のころ私の母が私に怒っていた理由とよく似ているのだ。楽な部分(皿洗い)だけ手伝って、最後(鍋洗い、ゴミ掃除など)まできっちりしてくれない、良く母に言われた言葉だ。そうやって、家事を手伝っても、しばしば怒られた。

 

 書くと気づきがある。気づくことによって自分の中の澱のようなものを手放せる気がする。次は怒らない自分になっていることを期待しよう。

 

追記

西洋人男性はよく家事をするという記事やブログをときどき見かけますが、個人的には全く当てはまりません。一方で家事サービスを雇う人は日本よりも多い印象です