急に何もかもが嫌になった。
フランス語の本を読むのが嫌になった。
友達に言わせると美しいフランス語かもしれないが、私には風景描写が長くて退屈だ。知らない単語も多い。
外は雨。今日は、ジョギングも辞めておこう。友達から電話がかかって来て、公園に行くよう薦められた。友達は森のそばに住んでいるから、土曜や日曜の少しの晴れ間のパリの公園や通りにどんなにたくさんの人がいるか見たことがないのだ。
私はどんなに人が多いか説明し、夫の同僚が携帯電話を力づくで盗られた話もしたが、友達はマスクをしていればどんなに人がひしめき合っていても伝染ることはないわよ、パリがスマホを盗まれる(彼女も何度か盗難に遭っている)街というのは諦めるしかないわよ、外に出かけると気持ちいいわよ、と続けていた。
私のためを思って言ってくれているのは分かる。優しさから言ってくれているのも分かる。だが、何かを薦めるのを、あなたのためと言ってそう言われるのを今の私は望んでいない。
その人にとって気持ちのいいものがすべての人にとって気持ちがいいとは限らない。私はこれは好きと言われるのはいいのだが、あなたにはこれがいいに違いないと押し付けられるのは今は望んでいない。それでなくとも、自由がないのだ。私と同じ場所に住んでいないので状況も分からない。
部屋でアイルランドの歌手シネイド•オコーナーのCDユニバーサル•マザー(1994年)を聞いている。ちょっと、雰囲気が重たいのでしばしば聞くアルバムではないのだが、聴くと、とても美しいと思う。アルバムには日本語のライナーノーツがついていて、児童虐待へのNOを訴えるアルバムとある。
【右側がユニバーサル•マザーのジャケット】
その解説によると、1992年10月のアメリカのテレビ番組出演時、彼女はローマ法王の写真をテレビの前で破いて、批難を浴びた。その後のニューヨークでのコンサートで大ブーイングの中、彼女はボブ・マーリーの「War」を歌い、「child abuse(児童虐待)」と叫んだ。今から28年前の話だ。
それを読んだ流れで、ウィキペディアのフランス語と日本語で、カトリック教会の性的虐待事件について読んだ。長い。こんなにあるのですね。
https://fr.m.wikipedia.org/wiki/Abus_sexuels_sur_mineurs_dans_l%27%C3%89glise_catholique
それを読みながら、当時変人扱いされてきたシネイド•オコーナーは、正しかったのだと20年以上経って感じる。彼女は先駆者だったのだ。こういう発見があるのもライナーノーツという文化があってこそだ。
(断捨離、断捨離、叫ばないでください。眠っている物の中に、宝が埋まっているかもしれない)
友達は私が未だにCDを聴いているのを嘲笑った。さらに私は忙しくてゆっくり音楽を聴く時間なんかないわよ、とも言った。友達は400ユーロくらいするBluetoothもついた機器を私に見せた。いや私のコンポにもbluetoothもついているし、お風呂でも聴けるように小型のシンプルなwifiだけ聴けるスピーカも持ってる。それでもCDが好きなのはジャケットも含めて、映画の世界に入って行くように一つの世界を見ることができるからだと思う。好みは人それぞれだ。自由とは選択する自由があるってことなんだ。
シネイド•オコーナーの歌は祈りのようだ。2018年に彼女はイスラム教徒に改宗した。53歳。今年5月のネットの記事によると、今年9月から介護士になるため学校に通うようだ。
彼女自身、子供のころ母親に虐待を受け、マグダレン修道院でも虐待を受けたという。若い頃は勉強しなかった、いや、できなかったのだ。「ホスピスで、緩和ケアをやりたい。私が働きたいのは理由があって家族がいない一人の人に寄り添うことなのよ」と彼女は語る。介護士になった彼女がホスピスで働きながら歌い、患者たちが涙を浮かべているシーンを想像して、涙が出そうになった。
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