島の周りを歩きながら、「寛容」(フランス語では、tolérance)について、考えた。昨日、「お金のない人ほど、家に物が多い」と書いたけど、この言葉、You Tubeで聞くのはいいけど、招いた友達に、私の部屋の中を見渡しながら、こう言われたら、「寛容」でいられるかなあ、などと考えたのだ。
新型コロナウイルス問題以降、特に、人を家に招いたときに、言われた言葉にイラッとする感情が、強く出てくるようになった。どうしても、以前以上に、掃除などの手間が増えるせいかもしれない。もっと、家が広くて、いつでも来てもらえるサロンがあれば、違うのかもしれない。
コロナの規制による閉塞感で誰もが疲れていて、一方で、一人ひとりコロナによる影響は違っている。住んでいる場所でも、就いている仕事でも、違う。そのせいで見えているもの、感じていることが違うせいかも、しれない。
寛容とは、他者の罪や落ち度、異論などを寛(ひろ)い心で受け入れること。
現在使われている「寛容」が最初に使用されたのは15世紀のヨーロッパで、16世紀の宗教改革の結果として、カトリック普遍主義が崩壊、多くの人が宗教的な「寛容」を重要な課題と認識するようになった。日本語の「寛容」は、明治になって翻訳された。(主にウイキペディアより要約)
はっきりいつだったか、思い出せない。6、7年前だろうか、パリの哲学カフェに行ったときのテーマが、「tolérance(寛容)」だった。話の内容は、覚えていないのに、討論するテーマが「寛容」だったことは、しっかり覚えている。
【バスチーユ広場のカフェ・デ・ファー(Café des Phares)】
哲学カフェとは、誰でも参加でき、カフェに集って一つの哲学的テーマについて、討論する会である。哲学カフェに行ったのは、後にも先にも、その、一度きりだ。日曜日の午前中。店には50人くらいの哲学を話したい人がいて、熱気に包まれていた。集まった人たちは、職業も、哲学に関する知識も、バラバラの印象だった。私は、フランス語力の向上のため参加した感じで、聞き役に徹した。
私が行ったカフェは、バスチーユ広場に面したカフェ・デ・ファー(Café des Phares)で、世界の「哲学カフェ」の発祥地だ。1992年にマルク・ソーテという人がこのカフェを開き、世界中に広がった。その影響を受けた哲学カフェが日本にもいくつかある。
新型コロナの影響で、もちろん今は、パリのカフェは閉まっている。日本の哲学カフェもオンラインになっていたりするようだ。
私は、鳥のさえずりが聞こえる小さな島にいる。私の記憶の引き出しの中から、時間を超えて、「寛容」という言葉が現れ、それこそが私の今の課題のように感じられた。
哲学カフェ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7
寛容