パリ徒然草

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フリーメイソンの贈り物 自由の女神像の作者の美術館ーコルマール


セーヌ川のグルネル橋のたもとにある自由の女神像。パリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年を記念して贈ったものである】



【パリ、16区 白鳥の小径側から見る自由の女神像(一枚目の写真と同じ像、裏側から見た)】

 「アメリカニューヨークの自由の女神像はフランスのフリーメイソンからアメリカのフリーメイソンに贈られたものだ」
 
 都市伝説ではなく、女神像の台座にも、そのことを示す文言が刻まれている。

 人生には、なぜ、それをしたのか分からないことというのがいくつかあるような気がする。

 夫がアルザスコルマールのバルトルディ美術館の前で「今は閉まっているね。明日見学に来よう」と言ったとき、へー、これを見学したいんだ、そこまで彫刻見るの好きじゃないし、行きたい場所もいっぱいあって見学時間限られているし、私は「自由の女神像」そこまで、好きじゃないし、どうしようかな、と思ったのだった。

 フレデリック•バルトルディ(1834コルマール- 1904年パリ)は自由の女神像の作者の彫刻家である。



 夫に言わせれば、私はパリのリュクサンブール公園自由の女神像の写真を撮ったし、最近、パリの白鳥の遊歩道の自由の女神像の写真も撮っていたし、さらに最近、ポール•オースターも読んでいるじゃないか、ということなのだった。ポール•オースターの小説「リヴァイアサン」には自由の女神像を爆破して回る男が出てくる。

 自由の女神像エッフェル塔と同じで私にとって、アイコンである。だから、なんとなく写真を撮っていたのだが、夫にそう言われてみると、これも何かの“縁“かもしれない、気もしてきた。

 さらに言うと、私はパリのフリーメイソンの博物館にも言っている。冒頭に自由の女神像についてフリーメイソン関連のことを書いたが、彫刻家バルトルディはフリーメイソンリーとして、知られている。

 そして、結局、翌々日、私一人でその美術館に行って、見学したのだった。夫は他を見学した。滞在時間が限られているので、そのせいで、私はコルマールの2つの教会も、ウンターリンデン美術館も見学できなかった。


 3泊4日のアルザスの旅ではあったが、行程は直前ひらめきで決めていた。バスの時刻も現地で探した。夫とチュルクハイムから帰る8番のバスの中、私だけ先にバスを降りて、その美術館に向かったのだった。コルマール中心部にある、この美術館はバルトルディが12,13歳まで住んだ生家でもある。


 見学してみると、バルトルディの彫刻は素晴らしかった。表現力があった。行ったことのあるマルセイユのロンシャン宮と関係していたという発見もあった。バルトルディのパリのアパートが一部再現されていた。

 女神像については、構想段階の彫刻が面白かった。へー、最初はこんなイメージだったんだあ。

 これも素敵だけど、今の女神像のイメージとちょっと違う。



 アメリカ合衆国の独立100周年(1876年)を祝い、フランスの法学者で政治家のエドゥアール・ド・ラブライエが南北戦争後の混乱に苦しんでいたアメリカに対し両国の深い友情の証となりうるモニュメントの寄贈を提案し、寄付の募集を呼びかけた。設計は1874年にラブライエからフレデリク・バルトルディに依頼された。構造設計にはギュスターヴ・エッフェルらも関わった。

 像のデザインはウジェーヌ・ドラクロワの絵『民衆を導く自由の女神』とバルトルディの母親をモデルにしたものである。

 資金集めのため記念像建造キャンペーンとして、1876年のフィラデルフィア万博にトーチを掲げる右腕の一部、1878年万国博覧会であるパリ万博に完成頭部が展示され、大きな反響を得た。宝くじも発行され、約40万ドル相当の寄付金を集めた。1884年にフランスパリで仮組み完成され、214個に分解してフランス海軍軍用輸送船イゼール号でアメリカに運ばれた。

 台座部分の建設資金は、「ニューヨーク・ワールド」紙社主ジョーゼフ・ピューリツァーが資金集めのキャンペーンを行い、アメリカ国民の寄付によってまかなわれた。1886年10月28日に除幕式が行われた。

 さて、上下の写真の彫刻はバルトルディが、自由の女神像建設以前に、エジプトのスエズ運河で、台座に立ちトーチを掲げる女性の姿をした灯台を建設しようと制作したものだ。当時エジプトを治めていた人に構想を持ちかけたものの、結局バルトルディは野心を果たせないままフランスに帰国したのだった。

 トーチを持っていて自由の女神像に雰囲気が似ている。最もこちらはアラブ人だけれど。


 フリーメイソンについての説明はきちんと展示されていた。これ↓である。


 要約すると、バルトルディの家族がそもそもフリーメイソンと関係が深かった。

 そして、バルトルディ家は、アルザスの詩人で軍人を育てる学校を主催していたThéophile Conrad Pfeffel (1736-1809)と関係が深かった。Théophile Conrad Pfeffel は、ドイツ語とフランス語の翻訳を多数手がけ、「イルミナティ」(イエズス会の修道士だったインゴルシュタット大学教授のアダム・ヴァイスハウプトが1776年に創設した秘密結社。1785年解散)のメンバーでもあった。ドイツ語圏の啓蒙思想家でもあった。

 改めて自由の女神像を見てみた。トーチ(松明)を持って照らしている。


 澁澤龍彦氏の「秘密結社の手帳」に書かれているように、フリーメイソンの入会儀式も目隠しして、闇の中で行われ、目隠しを外すとき、「光明を与える」と言うのだそうだ。

 啓蒙思想。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること」である。 自然の光を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。

 自由の女神像の正式名称は世界を照らす自由 (Liberty Enlightening the World)。世界が正しい知識や情報の光で照らされることを祈ろう。


コルマールで自動車が走るロータリーに突然現れる自由の女神像


【パリ、リュクサンブール公園自由の女神像

https://kusanomido.com/study/overseas/23995/

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3