ハラキリ、サムライ、クーデター。三島の最期は、日本人だけでなく外国人にも強烈な印象を残す。こんな作家は世界を見ても特殊だ。パリで三島由紀夫関連の講演を聞いていたら、その最期を「マーケティング」という人までいた。
三島由紀夫は世界的に有名な作家になるために、あの最期を選んだのか?あの最期は三島由紀夫の戦略だったのか?ー私はそう思わないが、そうだとしたら、三島由紀夫は出版業界、文学に奉仕する凄いビジネスマンでもあったということだろう。そこまでやれーと言われたら作家になりたい人いるのか?
「三島由紀夫ブーム?」を①から③まで書いて④をなかなか書けないでいた。日本語の本を何冊か読んでいたからである。
日本語でKINDELで無料で読める評伝、分析、記録など三島について語った書籍を7,8冊読んだ。
そもそも、大量な三島関連書籍、あの最期の謎を考察する書籍だけでも、結構な数の書籍が出版されていることに、驚いた。52年前の出来事なのに、つい最近出版された本も何冊かある。それだけ惹かれる人、知りたい人が多いということだろう。
本を読んだのに、分かった気がしなかった。謎は残ってしまった。次の本を読めば分かるかもと思い、また次の本を読んだ。きりがない。
何が分からないのかというと、三島由紀夫はなぜあの最期を選んだのかーについて、いろんな説を読んでも、ああ、分かった、腹に落ちたーという気持ちになれなかった。沼にハマった気分だ。
私は、三島由紀夫について、パリでの講演でサムライの同性愛がどうだとか、楯の会の若者たちとサウナにしばしば行っていたーと、物知りげに語るフランス人たちにモヤッとした気分になり(書こうと思えば三島由紀夫は同性愛者だったという論文や本も書けるのは、分かったが、それは、他の方に譲ろう)、たくさん日本語の評論や分析を読んでしまったのだった。
結局、今書いているのは、三島由紀夫へのラブレターみたいなものなんだと思う。私は三島由紀夫を敬愛していたのである。そのことに気づいた。
これまで私の芸術家への態度というのは、その人生や私生活などどうでも良くて、作品とただ向き合えばいいのだと思ってきた。ファンだからと、人生を敢えて調べるタイプではなかった。探さなくてもどうしても入ってくる情報というのはあるし、たまたま読むことはあったし、ブログに書くために調べたことはあったにせよ、作家や作者の人生はどうでも良かった。
だから、一年以上前に三島由紀夫の遺作「豊饒の海」の感想文をこのブログで書いたときにも、三島の最期の日1970年11月25日に何があったのか、作品を読むことと平行して調べることはなかった。
5回連載の私の感想文⑤
https://clairefr.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/100147
それを覆された経験が先月のパリのフォーラムデ•イマージュだった。たまたま行った2つの講演で、三島由紀夫の小説も戯曲もあまり語らないのに、三島由紀夫の人生が紹介され、「切腹」のイメージが何度も繰り返し流れた。
それらの講演のせいで、私に一つの考えが生まれた。
遺作「豊饒の海」を理解するためには、三島由紀夫の最期を知らなければいけないのかもしれない。小説「豊饒の海」とは、三島由紀夫の最期と一緒に読まないと理解できないのかもしれない。
三島由紀夫は1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で憲法改正のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺を遂げた。その死の当日、遺作となった小説「豊饒の海」の最終巻「天人五衰」の最終原稿が、編集者に渡された。小説が完成した日と作者が亡くなった日が同じなのだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ウィキペディアで三島事件を読んでみた。ウイキペディアだけでも、結構な情報を知ることができる。
何だか、リアルの三島由紀夫と楯の会の青年たちの方が小説のように、虚構の世界のように、ロマンチシズムに溢れていて涙が出てきてしまう。映画化されたのも分かる気がする。小説「豊饒の海」は虚無、ニヒリズムで終わるというのに...。事実は小説より奇なり、とはこのことか。
三島由紀夫の人生についてはこれらのYou Tube動画が良くまとまっていると思う。
三島由紀夫 2つの仮面「第一章 大蔵官僚 平岡公威の‘’死‘’」「第二章 文学者 三島由紀夫 自死への道程」