今日は「父の日」である。
私にとって三島由紀夫は「父性」を感じさせる人だった。
そもそも、私が中学生で三島由紀夫を読み始めた理由は、私の父が中学生の私に薦めたからだった。三島の小説の1頁以上に渡る風景描写を一緒に読んで、その描写の繊細さを私の父が絶賛した。こうして私は三島という作家に出合った。他にこんな風に出合った作家はいない。
何度か書いているが、私の父は、3歳で自分の父を亡くし、小学生から荷物を運んだりして働いていて、働きながら夜間の大学を出て、同じ仕事を一生涯し続け、60歳ごろ病に倒れた。旅行もしない昭和の父という感じの人だった。
私の父よりも少し早く生まれた三島は幼子を両親に預けて妻と世界旅行をし、官僚の息子で、東大出の天才で華やかなスター。私の父とは対局のはずなのだが、なんだろう。その厳しさ、その生真面目さ は、どこか、三島と似通っていると勝手に私は思っている。
三島由紀夫は自分の息子が8歳のときに死んでいる。にもかかわらず、私は三島由紀夫に「父性」を感じる。そう感じているのは私だけかと思ったが、実業家、著述家、編集者の松岡正剛氏も三島に父性を感じている。
絹と明察
講談社 1964
https://1000ya.isis.ne.jp/1022.html
松岡正剛氏の上のブログによると、「三島は自分の意圖を隠さない人である。昭和三十九年十一月の「朝日新聞」では、「過去数年間の作品はすべて父親像を描いたものだ」と証かし、『喜びの琴』『剣』『午後の曳航』『絹と明察』といつた作品名まで告げてゐた。」
三島由紀夫の晩年の作家としてのテーマは「父親像」だった。それは、養子縁組をした息子との確執が描かれ、覗きを世間からバッシングされる元弁護士を描いた遺作「豊饒の海 第4部 天人五衰」にまでつながるテーマである。
では、現実の三島は、どうだったのだろう。
ウィキペディアによると、三島は年金も最後まで日本政府に払っていたし、自分の二人の子供に自分の死後も誕生日プレゼントが届くように手配して割腹自殺した。
生真面目な人だ。
三島は45歳で死んで、それよりも長生きした作家はたくさんいる。今年3月3日に88歳で亡くなった大江健三郎。私は大江健三郎のパリでの講演を聞いたことがある。でも、大江健三郎は私にとって光さんのお父さんだ。
三島があまり自分の子供について書き残さなかったことも(私が読んでいないだけかもしれないが)、私が勝手に三島由紀夫に父性を感じる一因なのかもしれない。
☆☆☆
私の父と私が最期に会った日本帰国の際、フランス人の夫がなぜか、この湯呑みを買った。
帰国したとき、毎日、私は父の入院する病院にお世話に行っていて、夫だけを一人で旅行に行かせた。その時、夫が一人で選んで買ってきた。
パリ中探しても、この湯呑みを持っているのは、夫だけだと思う。
反対側の絵が可愛いから買ったらしい。
「お父さん、有難とう」。
その言葉の意味も分からず夫は買ったのだ。
最初は、なぜ、夫がこの言葉が書かれた湯呑みを買ったのか、分からなかった。でも、今は、この湯呑みは、ここに来るべきして、来たと思う。
3歳で自分の父を亡くした私の父。6歳で自分の父を亡くした私の夫。そして、夫は今日、「父親になれず悲しい」と言う。
私は今日、「お父さん、有難とう」という言葉を噛み締めた。