パリ徒然草

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三島由紀夫とビートルズ来日 三島ブーム?⑤

 1966年ビートルズが来日したときの日本人の熱狂ぶりは凄かったようだ。私の書道の先生が中学生の私に「空港まで追いかけに行った」と話してくれて、え、この地味な先生が? こんな日本的な人までもがビートルズに熱狂?ーと私はびっくりした。現在、ビートルズ日本武道館公演に関する映画が日本で公開中。

 

映画「ミスター・ムーンライト」

https://mr-moonlight.jp/

 

youtubeビートルズ来日動画

https://youtu.be/4Stk_cNTjQ8

 

 せっかく公演を聞けた一握りの日本人のうちの一人、三島由紀夫の「ビートルズ見物記」が面白い。三島由紀夫はドイツの作曲家ワーグナーを絶賛していたが、ビートルズの良さは分からなかったようだ。

 

三島由紀夫ビートルズ見物記」を引用する。

★☆

「実は白状すると、私は舞台へ背を向けて、客席を見てゐるはうがよほどおもしろかつた。何のために興奮するか わからぬものを見てゐるのは、ちよつと不気味な感動である。私だつて、興奮が自分の身にこたへれば、エレキ だらうと、何だらうと偏見はない。(中略)

しかし、今目の前に見てゐる光景は、原因不明で、いかにも不気味である。私の数列うしろの席は、ビートルズ・ファンの女の子たちに占められてゐたが、その一人はときどき髪を かきむしつて、前のはうへ垂れてきた髪のはじをかんでゐるが、アイ・ラインが流れだしてゐる恨むがごとき 目をして、舞台をじつと眺めてゐる顔は、まるでお芝居の累である。(中略)

何で泣くほどのことがあるのか、わけがわからない。もつとも女の子は、たいてい、大してわけのないことにも 泣くものである。ふとつた子が、身も世もあらぬ有様で、酸素が足りないみたいに口をパクパクさせると思ふと、 急に泣きながら、

「ジョージ!」

「リンゴ!」

などと叫びだすのを見ると、心配になつてしまふ。

 

熱狂といふものには、何か暗い要素がある。

明るい午後の野球場の熱狂でも、本質的には、何か暗い要素をはらんでゐる。そんなことは先刻承知のはずだが、 これら少女たちの熱狂の暗さには、女の産室のうめき声につながる。何かやりきれないものがあるのはたしかだ。

だからビートルズがいいの悪いの、と私は言ふのではない。また、ビートルズに熱狂するのを、別に道徳的堕落だとも思はない。ただ、三十分の演奏がをはり、アンコールもなく、出てゆけがしに扱はれて退場する際、二人の少女が、 まだ客席に泣いてゐて、腰が抜けたやうに、どうしても立ち上がれないのを見たときには、痛切な不気味さが 私の心をうつた。

そんなに泣くほどのことは、何一つなかつたのを、私は知つてゐるからである。

虚像といふものはおそろしい。」(三島由紀夫ビートルズ見物記」より)

 

 私はビートルズの音楽も好きだけど、三島由紀夫の「ビートルズ見物記」も、愛嬌があって、好きだ。「分からないものは分からない」と正直に言ってて、好きだ。こういうシーンってあるよねーと笑えて好きだ。

 

 私も日本のロックやポップス、ジャニーズのタレント、日本のホストの良さが七転八倒どう頑張っても頑張ってもどうしてもどうしても理解できず、こういうのは理屈ではない気がする。

 

 何度か、数千円のお金を払って日本で、ミュージシャンのコンサートに行き、5分で、会場を後にしたことがある。耐えられなかった。理解しようと努力はしたのだ。

 

 小学生、中学生、高校生の頃は友達と話を合わせるため、ジャニーズなども聴いたし、見たし、理解しようとも努めた。

 

 中学生でテレビの芸能人の良さが全く分からなくて、それでも、一生懸命勉強して勉強して覚えて、同級生の前でお笑い芸人のマネをしていた。道化のように嘘をついて演技して生きるのは、苦しかった。毎日遺書を書いていたのもあの頃だ(今は、のほほんと生きていて全く死にたくないので、自殺したと聞いたら、他殺を疑ってください)。

 

 だから、自分に嘘をついては駄目だ。中学生の頃の私のように、生きては駄目だ。仮面で生きては駄目だ。

 

 まさにあの頃は仮面で生きていて、中学生の私に、三島由紀夫の「仮面の告白」という小説の言葉が一条の光のように心を照らした。私の心を代弁してくれているように思えた。

 

 もし、三島由紀夫の「仮面の告白」が自伝的小説だと言うのなら、三島由紀夫は男の汗とか、男の死とか、聖セバスチャンの絵画が熱狂、陶酔できる対象だったんだと思う。

 

 私の嗜好とは全く被っていない(今だったら、そういうのも面白いかも?!くらいの理解はあるにしても)が、他の人のように熱狂できない、大多数の興味、関心と違う自分という主人公の孤独に共感できた。その心理描写に救われた思いだった。

 

 一方で高校生のころ、イギリスやアイルランドのロックにハマった。好きなミュージシャンが崇拝するグループとして、ビートルズも一通り聞いた。そして、やっぱり今、聞いても同じミュージシャンが好きだ。

 

 それでいいのだ。人それぞれ。フランスの哲学者ドゥルーズ語るところの「N個の性」だよ。蓼食う虫も好き好き。

 

 私がもし、イギリスやアイルランドのロックと出会えてなかったら、この歳まで生き延びれたか分からない。フランスに住む勇気があったかも分からない。自分とは何の血縁がない人の作るものを心からいいと思えることーは、大事だ。楽しいと思えるものがあることは大事だ。いつも醒めていては人生面白くない。

 

 三島由紀夫は「虚像といふものはおそろしい」と書く。

 

 「天皇陛下万歳」と叫んだ後、割腹自殺した三島由紀夫。三島が言う絶対者も、虚像ではないのか。三島由紀夫の最期のパフォーマンスを滑稽だと言う人は、その虚像をあぶり出す。三島由紀夫の最期を愚行だとか馬鹿げているーと言えば言うほど、絶対者の虚像が明らかになる。

 

 だけれども、絶対者の虚像が明らかになったとして、その絶対者のために命を落とした人たちの死を愚行だと言えるのか。つまり戦時中の特攻隊員の死を私たちは、どう取り扱えばいいのだろう。

 

 三島由紀夫は特攻隊員の側にいたかったのだろう。特攻隊員の仲間でいたかったのだろう。まさに若い男の死の世界。虚像を虚像だと言いたくなかったのだろう。

 

 三島が10代で、お世話になった国学者、蓮田善明(1945年敗戦後上官を射殺し自決。享年41歳)らに日本を頼まれたことを40歳頃になって思い出したのかもしれない。10代の師たちへの忠義に生きたのだ。お世話になった人を裏切れなかった。たとえ亡くなっていても。

 

 だから、ビートルズ来日と同じ年、「英霊の聲」(1966年)を書いたのだ。書いたことで、三島由紀夫の体に入った。書くことは、ある意味恐ろしい。言霊は恐ろしい。

 

 

 

 三島由紀夫を戦前の皇国思想教育の犠牲者と見る人もいる。

 

 三島由紀夫は富士山の見える場所にお墓を建てたかった。それは、三島が10代で軍機訓練した場所で、後に自衛隊訓練した場所でもあった。遺書もあったらしい。自分の裸体ブロンズ像を自分で準備していた、という話がある(下の「死の貌」という書籍に詳しい)。

 

 墓に彫刻?日本では私は見たことがない。フランスの墓では彫刻をしばしば見かける。

 

 

 

 そういうところは全く三島由紀夫は西洋人っぽい。住んでいた家も金閣寺風ではなく、西洋風だった。朝はグレープフルーツ、夜はビフテキを食べていた。あんたが日本、日本言うなよ、と言いたい人がいるのも分かる。

 

 なんかそれも良いこのキッチュさ。

 

 富士山の見える三島由紀夫のブロンズ像の墓の前で、「痛切な不気味さが私の心を打った」と感じたかったなあ。どうやら、このブロンズ像のある墓は存在していないようだけど。。。

 

「どうしても理解できないといふことが人間同士をつなぐ唯一の橋だ。」(三島由紀夫「旅の墓碑銘」)

 

 三島由紀夫が割腹自殺したのが1970年、享年45歳。ビートルズジョン・レノンが暗殺されたのが10年後の1980年、享年41歳だった。合掌。

 

参考にしたブログ

https://bungaku-report.com/blog/2019/01/post-377.html