パリ徒然草

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短編小説「荒野より」で昔の私の不法侵入事件を思い出した 三島由紀夫ブーム? ⑧

 三島由紀夫の「荒野より」(1966年発表)という短編小説を最近になって知った。

 41歳の三島が、自宅に読者に不法侵入された事件を題材にした作品で、三島としては珍しい私小説的な心境小説である。

 

 ある日の早朝、突然2階の窓ガラスを割って闖入して来た熱狂的ファンの青年と対峙した〈私〉は、小説家としての自分が読者に及ぼす影響と、小説とは何か、小説家とは何か、さらに私の心について考えを巡らせる。

 

 1966年と言えば、三島が「英霊の聲」と「ビートルズ見物記」を書いた年と同じである。後に書かれた小説「独楽」という三島の作品も見知らぬ読者に「先生はいつ死ぬんですか」と質問される実際の出来事を題材にした作品で、割腹自殺に至る心境を探る研究書として、「荒野より」と比較研究されることもある。

 

 小説後半には、「私の心の都会を取り囲んでいる広大な荒野」などの表現が出てきて相変わらず比喩表現が上手い上手い。三島節が楽しめて私は嬉しい。だが、私は今からこの小説の紹介や批評、感想文を書く気はない。

 

 この小説を読んで、私自身の18歳の思い出が蘇った。昨日のことのように。あまりにも鮮明に覚えているので、それはトラウマだった、とも言えるかもしれない。

 

 私は、18歳で日本の、とある都市で一人暮らしをした。平屋の一階四畳半、シャワーも風呂もない物件だった。一人暮らしの解放感。新しい出会いも多く、意欲に溢れていた。お金がないことも苦ではなかった。自炊して、バイトして、勉強し、節約した。

 遅い時間まで、ミシンで、ジャケットを縫っていて、就寝しようとしたが、浅い眠りだった。ふと目を開けると、誰かが私を覗き込んでいた。きゃっと叫ぶと、黒い影はいなくなった。金銭や通帳は無事だったが、下着が盗まれていた。あのときの時間が止まったような非現実な感じ。ーを、この小説を読んで思い出した。

 

 共通点は、暗がりの中の男の闖入者である。そして、私も、小説の「私」も、闖入者をこの目で見ている。自分の身近な空間にニョッキリと現れた見知らぬ人物。だけど、三島も小説で書いているように怖くはなかった。

 

 『「あいつ」は、「私」の心から来たのである。』(「荒野より」から引用)ー三島が書いているように、10代の私もそう思った。そして、「あいつ」が憎い、軽蔑するというよりも、「あいつ」は自分が引き寄せたのだろうか、と当時の私も、小説の「私」と同じことを思ったのだった。10代の女の子のように繊細な三島の感性。

 

 三島の場合は闖入者は三島に問いを残し警察に逮捕された。私の場合は、闖入者は、逃げて夜の闇の中に消えていなくなった。

 

 「あいつ」よりも警察の事情聴取の方が18歳の私には怖かった。闖入者は男1人だったが、翌日の警察の事情聴取は男2人でやってきた。中年だった。一人はガタイが大きかった。拳銃も持っていたかもしれない。根掘り葉掘り尋ねられた。

 

 当時、若い女性の一人暮らしの家に男の不法侵入はよくあることと警察に言われた。その近辺で他にも届けがあっていた。二人の中年が私の狭い部屋に来て、いろいろ尋ねただけで、その後、犯人が捕まったとも何も聞いていないし、下着も戻ってきていない。被害総額は、当時の私には結構な金額だった。

 

 私は警察に届ける気なかったのに、親に電話で話したら、勝手に届けられて、警察がいきなり四畳半の小さな部屋にやってきた。ストレスだった。親に何でも話すのは良くないと思ったものだった。

 

 その後、程なくアパートの3階に引っ越したが、そこでも通路側の高い場所にある風呂場の通気孔から、妙に長い手が伸びてきたことが何度かある。顔を見せない長い手。まるで怪談だ。今では、笑える。

 

 私はこの程度ですんだが、同級生の女子で社会人になって昼間の公園のトイレで強姦未遂に遭い抵抗したときに顔など怪我をして、しばらく引きこもりになった子もいた。(すべて日本での昔話である。他にもたくさんあるが、今日は書かない。ふう…。)

 

 三島由紀夫の話に戻ると、この青年以外にも三島の家を訪れる不審者は度々あったようで、中には、身に覚えのない、根も葉もないことをネタに強請りに来る、法律知識を駆使する詐欺師まがいの悪質な輩もいたという。三島の父親、平岡梓が書いた本「伜•三島由紀夫」には、元特攻隊員を名乗る変な風貌の男が三島の家にやって来て三島の洋服30着盗難する話も出てくる。同情する。

 そしてやっと、三島が死にたくなった理由、私には分かる気がしてきた。右翼にも脅迫されるし、こんなことばかり起こったら、うかうか寝ていられないし、嫌になりますよね。有名人は、大変だ。「荒野から」の中にも子供たちをどこに隠すか、家族と話し合うシーンもある。三島憂国論、戦後日本社会の全否定は、このような実体験も心の深いところで影響を与えたのではないのだろうか。

 

 闖入者の青年の狂気が「孤独 」に育まれたものであるのを「私」は一瞥で解したが、その狂気の発現には、「私」の文学作品 が介在し、活字 を通じて見知らぬ他人の孤独の中へ、小説家の孤独がしみ入っていくのである。(「荒野より」要約)

 

 そう考えると、書くと言うのは、怖いことなんだと思う。三島の作品があまりにも良く書けているからこそ、孤独な読者を惹き付けてしまった。私の今書いているブログのように、ひっそりと、穏やかに長く書き続けられるくらいが一番幸福なのかもしれない。