パリ徒然草

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コルマールでどこに泊まるべきか


コルマール中心部で見かけたホテル】




コルマール中心部で見かけた豪華ホテル】

 コルマールで宿泊したのは、近代的なアパートホテルだった。コルマール駅から徒歩7分くらいで、Parc du Château d'eauという公園のそばだ。公園は広々していてバルトルディの彫刻や給水塔もあった。そのアパートホテルにはプールもあった。








【公園の近くの裁判所の建物】


 アパートホテルがいいのは、ちょっとしたキッチンがあって、調理して、食べることができること。テラスもあったので、朝食を日の光の中で食べることができた。


 一方で完全なアパートを借りた場合、チェックイン後の荷物が問題になるが、アパートホテルだとフロントがあって、荷物を預かってくれる。車がない者にとって、荷物を預かってくれるシステムは本当にありがたい。おかげで出発日も夜まで荷物少なくウロウロできた。


 10分ほど歩けば運河のあるプチットヴニーズ(直訳すると小さなベニス)だった。でも、徒歩15分、20分歩かないと、スーパーがなかった。部屋には調味料や油も一切置いていなかった。車であれば、調味料なども、持ち込みやすいが、私たちは持って行かなかった。さらに200ユーロ事前にデポジットとして預けるシステムだったので、真新しいキッチンを汚すのが怖くなってしまい、温めるくらいで調理らしい調理はしなかった。





 一つひとつは、たった徒歩7分や10分、15分の距離なのだけれど、近郊の村に行っても歩き回るし、相当歩いた旅となった。アパートホテルの周りは住宅街だった

 せっかくであれば、古い街並みの中のホテルに泊まりたかったかも、と少し後悔した。ルーアンストラスブールでは、古い街並みの中のホテルに泊まったことがあり、その中に身を置くことそのものがタイムスリップしたような旅ができる。

 朝、教会の鐘の音で目が覚め、木骨造りの建物の窓を開ける。時空を超える旅のように感じる。古い街並みが残るコルマールだからこそ、木組みの家の一つに泊まりたかったかもしれない。

 


 そして、やっぱり後、一泊したかったなあ。
 名残り惜しいくらいで離れるのも悪くはないのかもしれない。また行こう。今度は中心部の木組みのホテルに泊まろう。

日本は10日から外国人団体旅行受け入れ 夫の入国は査証が必要 

 新型コロナは海外在住の日仏カップルが一緒に、簡単に日本に入国できない状況を作り出した。そろそろ日本もコロナ規制緩和されたかなあ。今年の夏のヴァカンス。フランス人の夫とともに日本に帰りたいなあ、とネット検索した。

 日本は、旅行業者等を受入責任者とする添乗員付きパッケージツアーによる外国人観光客の受入れを今月10日より開始する。


https://www.mlit.go.jp/kankocho/page03_000076.html

 だが、団体行動のみ、屋内でも屋外でもマスクを付けろーなど、なかなか厳しい内容のようだ。

 では、個人旅行はどうだろう。
 フランス人の夫のように、私と一緒に、入国したい場合は?


 
https://www.fr.emb-japan.go.jp/itpr_fr/faq-vaccination-quarantaine.html


 在フランス日本国大使館のサイトを読む限り、5月30日現在、査証を取得しないと入国できないようである。観光目的の滞在は認められていないようだ。

 以前は行動計画表や銀行残高証明書、受け入れ先なども提出して、査証が発給されたが、ここ最近、簡素化されてはいるようだ。でも私の3ヶ月以内の戸籍謄本が必要なようなので、現在、ウクライナ戦争のため国際郵便の時間がかかっており、ある程度、時間がかかる。個々の状況で違うかもなので、もっと調べてみるしかない。


【パリで売っている日本の駅弁】

 フランス人の観光目的のビザなし日本入国ができなくなったのは、2020年3月21日。

 2年以上この状況が続いている。
 一昨年夫は言った。
「日本へは来年行こう」
 昨年夫は行った「日本へは来年行こう。そのために今年のヴァカンスを来年に回そう」

 フランス人の夫はこれまでに15回日本に行くほどの日本好き。毎日漢字の書き取りをして、日本語を勉強している。東北の平泉など、私が行ったことのない日本各地を旅行している。四国の八十八ヶ所巡礼がしたいらしい。

 夫は今日、上記の在フランス日本国大使館のサイトを読んで、悲しい顔をした。

「ビザ取って今年行こうよ」
と私は言った。
「無理しなくていいよ。もう諦めたんだ。僕は日本が好きだけど、日本は僕を嫌いだと思うんだ」

夫はもう来年行こう、とは言わなかった。しょぼーん。

コルマール駅舎 ウンターリンデン美術館のイーゼンハイムの祭壇画

 

 コルマール駅に着いたとき、懐かしい感じがした。デジャブ(既視感)を感じた。そもそもコルマールには20年ぶりくらいに来たので、そのせいかもしれない。オルセー美術館に行ったばかりだったし、オルセー美術館の建物とどこか同じ雰囲気を感じたのかもしれない。オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設された駅舎兼ホテルだった。


 1907年に完成した現在のコルマール駅舎は、その時代のドイツの行政によって建てられた。アール・ヌーヴォー建築である。







 コルマールのウンターリンデン美術館には「イーゼンハイムの祭壇画』がある。ドイツの画家マティアス・グリューネヴァルト (1470頃 – 1528) によって、1512年から1516年にかけて制作された。彼の作品の中では最大の大きさで、最高傑作である。


 圧巻。







 この美術館にはクラナッハの作品もあった。




【ウンターリンデン美術館外観】







 

コルマール写真館

 コルマールはかつて現在のドイツを中心とする神聖ローマ帝国自由都市であり、歴史ある街である。

 17世紀後半、アルザス地方がドイツ圏からフランス王国に割譲され、コルマールはフランス領アルザスの一都市となった。普仏戦争でフランスがプロイセンに敗北した後、1871年アルザスドイツ帝国に割譲され、コルマールはドイツ領となった。

 1918年にフランスは再びコルマールを自国領に編入した。第二次世界大戦で1941年フランスがドイツに降伏すると、コルマールドイツ国土の一部とされ、1942年にはドイツ国防軍コルマールに進駐した。コルマールに連合軍が進駐したのは1945年2月である。(ウィキペディアより)
 100年間で4回国籍が変わったという。

 これだけドイツとフランスの両国間で揺れた地域であったにもかかわらず、コルマールは奇跡的に戦禍を逃れ、中世やルネサンス時代の古い町並みを残している。

 運河の流れるエリア、ドイツ風の木組みの家、可愛らしいイラストの吊り看板、独特の色の石造りの教会....。

 出窓が印象的なブフィスタの家(下↓の写真)は16世紀に建てられた。ジブリ作品「ハウルの動く城」に出てくる家のモデルにもなった。





フリーメイソンの贈り物 自由の女神像の作者の美術館ーコルマール


セーヌ川のグルネル橋のたもとにある自由の女神像。パリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年を記念して贈ったものである】



【パリ、16区 白鳥の小径側から見る自由の女神像(一枚目の写真と同じ像、裏側から見た)】

 「アメリカニューヨークの自由の女神像はフランスのフリーメイソンからアメリカのフリーメイソンに贈られたものだ」
 
 都市伝説ではなく、女神像の台座にも、そのことを示す文言が刻まれている。

 人生には、なぜ、それをしたのか分からないことというのがいくつかあるような気がする。

 夫がアルザスコルマールのバルトルディ美術館の前で「今は閉まっているね。明日見学に来よう」と言ったとき、へー、これを見学したいんだ、そこまで彫刻見るの好きじゃないし、行きたい場所もいっぱいあって見学時間限られているし、私は「自由の女神像」そこまで、好きじゃないし、どうしようかな、と思ったのだった。

 フレデリック•バルトルディ(1834コルマール- 1904年パリ)は自由の女神像の作者の彫刻家である。



 夫に言わせれば、私はパリのリュクサンブール公園自由の女神像の写真を撮ったし、最近、パリの白鳥の遊歩道の自由の女神像の写真も撮っていたし、さらに最近、ポール•オースターも読んでいるじゃないか、ということなのだった。ポール•オースターの小説「リヴァイアサン」には自由の女神像を爆破して回る男が出てくる。

 自由の女神像エッフェル塔と同じで私にとって、アイコンである。だから、なんとなく写真を撮っていたのだが、夫にそう言われてみると、これも何かの“縁“かもしれない、気もしてきた。

 さらに言うと、私はパリのフリーメイソンの博物館にも言っている。冒頭に自由の女神像についてフリーメイソン関連のことを書いたが、彫刻家バルトルディはフリーメイソンリーとして、知られている。

 そして、結局、翌々日、私一人でその美術館に行って、見学したのだった。夫は他を見学した。滞在時間が限られているので、そのせいで、私はコルマールの2つの教会も、ウンターリンデン美術館も見学できなかった。


 3泊4日のアルザスの旅ではあったが、行程は直前ひらめきで決めていた。バスの時刻も現地で探した。夫とチュルクハイムから帰る8番のバスの中、私だけ先にバスを降りて、その美術館に向かったのだった。コルマール中心部にある、この美術館はバルトルディが12,13歳まで住んだ生家でもある。


 見学してみると、バルトルディの彫刻は素晴らしかった。表現力があった。行ったことのあるマルセイユのロンシャン宮と関係していたという発見もあった。バルトルディのパリのアパートが一部再現されていた。

 女神像については、構想段階の彫刻が面白かった。へー、最初はこんなイメージだったんだあ。

 これも素敵だけど、今の女神像のイメージとちょっと違う。



 アメリカ合衆国の独立100周年(1876年)を祝い、フランスの法学者で政治家のエドゥアール・ド・ラブライエが南北戦争後の混乱に苦しんでいたアメリカに対し両国の深い友情の証となりうるモニュメントの寄贈を提案し、寄付の募集を呼びかけた。設計は1874年にラブライエからフレデリク・バルトルディに依頼された。構造設計にはギュスターヴ・エッフェルらも関わった。

 像のデザインはウジェーヌ・ドラクロワの絵『民衆を導く自由の女神』とバルトルディの母親をモデルにしたものである。

 資金集めのため記念像建造キャンペーンとして、1876年のフィラデルフィア万博にトーチを掲げる右腕の一部、1878年万国博覧会であるパリ万博に完成頭部が展示され、大きな反響を得た。宝くじも発行され、約40万ドル相当の寄付金を集めた。1884年にフランスパリで仮組み完成され、214個に分解してフランス海軍軍用輸送船イゼール号でアメリカに運ばれた。

 台座部分の建設資金は、「ニューヨーク・ワールド」紙社主ジョーゼフ・ピューリツァーが資金集めのキャンペーンを行い、アメリカ国民の寄付によってまかなわれた。1886年10月28日に除幕式が行われた。

 さて、上下の写真の彫刻はバルトルディが、自由の女神像建設以前に、エジプトのスエズ運河で、台座に立ちトーチを掲げる女性の姿をした灯台を建設しようと制作したものだ。当時エジプトを治めていた人に構想を持ちかけたものの、結局バルトルディは野心を果たせないままフランスに帰国したのだった。

 トーチを持っていて自由の女神像に雰囲気が似ている。最もこちらはアラブ人だけれど。


 フリーメイソンについての説明はきちんと展示されていた。これ↓である。


 要約すると、バルトルディの家族がそもそもフリーメイソンと関係が深かった。

 そして、バルトルディ家は、アルザスの詩人で軍人を育てる学校を主催していたThéophile Conrad Pfeffel (1736-1809)と関係が深かった。Théophile Conrad Pfeffel は、ドイツ語とフランス語の翻訳を多数手がけ、「イルミナティ」(イエズス会の修道士だったインゴルシュタット大学教授のアダム・ヴァイスハウプトが1776年に創設した秘密結社。1785年解散)のメンバーでもあった。ドイツ語圏の啓蒙思想家でもあった。

 改めて自由の女神像を見てみた。トーチ(松明)を持って照らしている。


 澁澤龍彦氏の「秘密結社の手帳」に書かれているように、フリーメイソンの入会儀式も目隠しして、闇の中で行われ、目隠しを外すとき、「光明を与える」と言うのだそうだ。

 啓蒙思想。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること」である。 自然の光を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味である。

 自由の女神像の正式名称は世界を照らす自由 (Liberty Enlightening the World)。世界が正しい知識や情報の光で照らされることを祈ろう。


コルマールで自動車が走るロータリーに突然現れる自由の女神像


【パリ、リュクサンブール公園自由の女神像

https://kusanomido.com/study/overseas/23995/

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3

小説「最後の授業」の政治的プロパガンダ

 アルザス地方に行ってきた。そのせいもあってか、学生時代に教科書の中に出てきた「最後の授業」(La Dernière Classe)という小説を思い出した。「最後の授業」は、1873年に出版されたアルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語(フランス語版)』(Les Contes du Lundi)の1編である。

 いや、この小説について、考えたきっかけは約2ヶ月前のウクライナ侵攻だった。ロシア侵攻前、ウクライナ政府はロシア語の広告を禁止する法律を施行していた。旧ソ連だったウクライナにはロシア語話者がたくさんいる。自分が老人で、いきなり自分が使ってきた言語、例えば、日本語を禁止されたら嫌だろうなあと想像した。そして、思い出したのが、中学生で学んだ記憶のある小説「最後の授業」だった。

 この小説は、まだ、若い私に衝撃と、感動として深く刻まれた。

.....学校が嫌いで寝坊して遅刻して授業に出るフランツ。そこで、アメル先生が「私がここで、フランス語の授業をするのは今日で最後です」と言う。。「ベルリンからの命令で、アルザスとロレーヌの学校ではドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」と言う。

 アメル先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、はっきりした言葉です」とも言う。最後に黒板に「フランス万歳」と書く。.......

 日本語と英語しか、知らなかった子供の私に、世界一美しいフランス語はどんな言語だろう、という好奇心を掻き立てたものだった。そして、周りの誰もが日本語しか話さない環境で育ってきた私は、自分たちの言語がいきなり支配者によって禁止されるなんて酷い話だと、記憶してきた。



 約2ヶ月前、ウイキペディアを読んだ。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD

 そして、驚いた。

 あれ?フランス語は、そもそも、この地域の人々の言葉では、なかったのだ。日本の中学校では、そこまで教えてもらえなかった気がする。

 「アルザスの子供達は、ドイツ語の一方言であるアルザス語が母語であるため、国語であるフランス語を話すことも書くこともできず、わざわざそれを学校で習わなければならない状態だったのである。主人公のフランツも、自分はやっとフランス語を書けるようになったばかりだと作中で語っている。アメル先生は、アルザス語を母語とするアルザス人に対し、フランス語を「自分たちのことば」ないし「国語」として押しつける立場にあったものであり、実際には1990年代までフランス語反対運動が続いていた。本作においては、政治的意図でもってはっきりこの点が隠蔽されているので、背景知識なしでこの短編だけを読むと、まるでアルザスの人々が外国語であるドイツ語を占領軍に押しつけられているようにしか思えない書き方をされている。
しかし、田中克彦の『ことばと国家』や蓮實重彦の『反=日本語論』などによる、「国語」イデオロギーによって言語的多様性を否定する側面を持つ政治的作品であるとの批判もあった。」(ウィキペディアより引用)

 話の舞台になるフランスのアルザス領はドイツとフランスの国境付近にあるために、戦争の状況によってはフランス領になったりドイツ領になったりしてそれによって言葉も変えるように強制されてきた。

 『最後の授業』が書かれた1873年普仏戦争でフランスが敗北し、アルザスはドイツ領になりフランス語は禁止言語になった。

 普仏戦争とは1870年7月19日にプロシアとフランスの間で起こった戦争で、プロシア軍の圧倒的攻勢によりパリが包囲されて、フランスは和解条件としてアルザスとロレーヌの一部をプロシアに譲った。

アルザス

1914年~1918年の第一次世界大戦中はフランス領
1939年~1945年の第二次世界大戦中はドイツ領
戦後フランス領に戻る。

 

 ドイツ語とフランス語は全く違うので、住民は苦労しただろうなあ、と想像した。フランス語が分かると、スペイン語やイタリア語であれば何を話しているかくらいは分かったりする印象なのだが、ドイツ語は全然分からない。


 そうは言っても、ベルギー、スイスのように、公用語が3,4か国語ある多言語国家というのも、存在する。苦労もあるのかもしれないが、住民は普通に暮らしている。


 今住んでいるパリは、というと、フランス語が主とはいえ多言語空間である。昨日も、カフェに行って、何の言語か分からない言葉をウェイターとお客さんが話し続けていた。観光客が多いせいか、バスの中でも、公園でも、ドイツ語、イタリア語、分からない言語を耳にする。

 それにしても、学校教育の中で、洗脳されたままのことはいろいろありそうだ。


【写真はすべて先月アルザス地方で撮影】

カイゼルスベルグ 城に登って皇帝の監視員のように村を見渡す


 カイゼルスベルグは「皇帝の山」と訳される。最初の町の記述は1227年に現れるのだという。神聖ローマ帝国(ドイツ諸国連合体)によって、交易の見張り台である城砦が作られ、帝国都市として、さまざまな特権を与えられ、ワインの輸出によって繁栄してきた。


【村の家並みの向こうに城が見える】

 雑誌フィガロの特集で見て、長年旅したいと夢見てきたフランス、アルザスの村、カイゼルスベルグ。前日までバスの時刻表が手に入らず、行くか悩んだが、行って良かった。


 バスで着いたら、すぐに正午の教会の鐘の音が鳴り響いた。山の上に中世の城が見えるぶどう畑でビデオ撮影した。

カイゼルスベルグのぶどう畑にて
https://youtu.be/xqtHwW2FnMw


 サン•クロワ教会裏手の城とぶどう畑が見える、写真↑の場所が最も気に入った。ちょうど薔薇も咲いていて、清々しく感じた。

 中世の城に向かって徒歩で山を登った。約10分ほどで城に着く。


【坂道や階段を登りながら、村の教会の塔を見る】

 円柱状の主塔の高さは4メートル。暗い螺旋階段を登って、見張り台まで登ることができる。この城は13世紀に建てられたが、主塔と城壁の一部、城門が残っている。


【城の主塔】


【主塔の途中の窓から見える景色】


【主塔の頂上】


 
 主塔の上から、村の家や褐色の屋根や通りが見渡せる。ぶどう畑の向こうにドイツも見えている。ここは国境近くの城下町と言えるだろう。



塔の上からの景色
https://youtube.com/shorts/flupk0G9Zos?feature=share

 山を降りて村へ。

 村の中心の広場にコンスタンティヌス1世の泉がある。

 13世紀に建てられたサン•クロワ教会。ロマネスク様式の外観も教会内部も素晴らしかった。



 教会の彫刻もすべて中世の趣きが感じられた。

 中世の橋もある。

 川も流れている。

 シュバイツアーの家は工事中だった↓。



 木組みの家に、可愛らしい装飾。クリスマスマーケットの飾りを思わせた。

 私はコルマール駅近くに宿泊していた。カイゼルスベルグコルマール駅前から145番のバスで行くことができる。だが、時刻表を見つけるのが難しかった。バス停に行きの時刻表は貼ってあるが、帰りの時刻表は貼っていない。


 午前8時30分の次のバスは午前11時15分発である。この日は既に移動のためコルマールを夕方出発の切符を買っていたので、前日まで行くか悩んだ。


 結局、11時15分発のコルマール駅前発のバスに乗り、バスの運転手に帰りの時刻を聞いた。いくつもある村の停留所のうち、Rocade Verteというバス停で降り、向かいの停留所から14時19分ごろの帰りのバスに乗った。ちなみにそのバスを逃したら帰りのバスは3時間後だった。滞在時間約2時間の少し慌ただしい旅となった。

 2022年5月時点の時刻表↓。往復一人7ユーロ程度だった。

 レストランで食事を取らず、村のパン屋さんで食事を取った。オリジナルのキッシュがとても美味しかった。ブレッツェルも食べた。

 2時間では名残り惜しかった。せめて、城を見上げながら、ぶどう畑付近でパンを食べたかったなあ。


カイゼルスベルグについてよくまとまったサイト
https://lesplusbeauxvillages.com/villages/kaysersberg/

アルベルト・シュヴァイツァーウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC