パリ徒然草

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想像力が未来を救う すべての子どもたちの幸せを祈る

 幼稚園が嫌いだった。いかにしてずる休みするか、ばかりを考えていた。鼻血をわざと出して行かずにすんでほっとしたことを覚えている。5,6歳の癖に、登園拒否児だった。

 

 そして、あの幼稚園だけが私にとって宗教教育を受けた期間である。カトリックの幼稚園で孤児院が併設されていた。

 

 イエスが生まれる劇をクリスマスには演じた。私は星の役だった。小さなチャペルがあって賛美歌を良く歌った。毎日のように、礼拝堂で神に祈った。

 

 私は日本人で日本に住んでいて実家には仏壇と神棚があり、月命日にはお防さんが来た。今でもそうだ。だが、仏教のことを知る前に、神による天地創造も、馬小屋でキリストの誕生も学んだ。

 

 今でも「マリア様の心それは青空」と歌えてしまう。マリア様は好きだった。

 

 一方でカトリックは、プロテスタントという宗教を批判していて、先生はお友達を悪く言っちゃいけないって言っているのに、なんでこの幼稚園は他のグループ(プロテスタント)を悪く言うんだろう、とびっくりした記憶がある。そういうことにやたら敏感な子供だった。何十年たっても昨日のことのように思い出せる。

 

 なぜ幼稚園に行きたくなかったのか。幼稚園にいる孤児たちは気が強くて、私に意地悪だったからだ。だから行きたくなかったのだ。でも、親には当時は上手く説明できなかった。今となっては親にも悪いことをした。

 

 もしかしたら、5歳の私は、今よりもずっと直感が鋭くて、同級生の孤児たちから何か感じ取っていたのかもしれない。孤児たち自身には何の罪もないのだと分かる年齢になった今でも、暗い孤児院への階段を昨日のことのように、思い出せる。

 

 今年8月初め、原爆投下後の広島の孤児たちのことがフランスのテレビ番組Arteで語られていた。日本が貧しかった時代のことだ。それを見たのはレバノンで大爆発があった日のことだった。

 

 テレビ番組ではこんなことが語られていた。

ー親を失った男の子たちはやせ細っていた。孤児でも、女の子たちはちゃんと食べ物を与えられて、きれいな着物を着せられて、そして、いつの間にか、いなくなった。。。ー

 

 その子たちは、あの後どうなっただろう。

 

 それから、私に意地悪だったと当時感じていた幼稚園の孤児たちはどうなっただろう。

 

 どうか、幸せに生きていますように。

 

 こんなことを書くのも今日、この動画を見つけたからでもある。

「聖職者による性的虐待を日本でも実名報道」(TBS)

https://youtu.be/rzp9hxUEzxM

 

 この動画の被害者は、カトリック系の孤児院にいて神父による性的被害に遭った。

 

 ネットや本で見つける情報はもっと酷い。悪魔崇拝儀式と子供虐待ー。子供を悪魔の生贄にし、恐怖を与え、松果体を食べ、血を飲む。たくさんの人が実名で顔出しで、YouTubeや本やブログやホームページで、そのことを語っているのを見た。

 

 貧富の格差への大衆の怒りが生んだデマなのかもしれないとも考えた。誇張されていることもあるかもしれない、誤解もあるかもしれない、とも思う。

 

 私は悲観論者ペシミストなのかもしれない。

 

 私が分かるのは、支配している者に弱い立場の者の人生が左右されるということだけだ。力を持っている人が善意の人であれば何の問題もない。救ってくれて、育ててくれてありがたいことだ。

 

 ー心理生理学で、1−6歳または1-8歳の子供が性的虐待を受けトラウマになると人格が分裂しその傷は一生消えない。そして多くの場合、多重人格や解離性障害になる。ー

 

 この知識を良い方向に使う人もいるだろう。では、あなたの想像では、力のある者が常にすべて善意の人だと断言できますか。

 

 あるいはもっと悪意を持って、国力を奪うために、性的虐待をしそうな人をその地位に置いているのだとしたら? ただの想像でしかないが。

 

 浦沢直樹の漫画「モンスター」の世界を思い出した。

 

 想像力が未来を救う。