パリ徒然草

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表現の自由とプライバシー侵害、肖像権の問題を考えた 

 夫がほとんど私のブログを読んでない間は良かったのだが、「読め」と迫ったところ、夫本人についての記述について、翻訳機能を使ってフランス語に翻訳した後、この表現は違う、ここまで酷いこと言ってないなどと言い始めた。私としては相互理解を深めてもらおうと思って読んでほしいと思ったのだが、匿名とはいえ、夫について勝手に書いていることがさらなる夫婦の論争の原因にもなり得るのだなあ、なかなか難しいものだなあ、と思った。

 

 結局、夫からもう読まないから、何書いてもいい、と言われている。でも、表現の自由とプライバシーについてモデル小説を中心に調べたところ、夫の承諾を書面に残しておかないと、夫が私を訴えたら日本の司法では、私は負ける可能性が高い。

 

 三島由紀夫の小説「宴のあと」(1960年)を読んだことがある。そのモデルとされた政治家が私生活をのぞき見したかのような描写によってプライバシーを侵害されたとして損害賠償と謝罪広告を求めて、作者と出版社及び発行者を提訴した。日本で初めてプライバシー権が認められたのが「宴のあと」事件だ。 

 

 読んでいるときは引き込まれが、後で裁判を知って自分が書かれる立場だったら、嫌だろうとは思った。

 

 柳美里の「石に泳ぐ魚」(1994年)は、この作品のモデルとなった女性により、プライバシー権及び名誉権侵害を理由として損害賠償、出版差止めを求める裁判を起こされた。

そして、2002年、文学的表現においても他者に害悪をもたらすような表現は慎むべきである旨を、最高裁判決理由で指摘。判決確定から約1ヶ月後、モデル女性の周辺情報や腫瘍のある顔について直接的に描写した箇所を60箇所以上修正した「石に泳ぐ魚」改訂版を出版している。

 

 この2つが有名だが、これ以外にもいくつかモデル小説のプライバシーを巡る裁判があって日本の裁判事例をいくつか読んだ。今ではネット上で、大学法学部のPDFが読め、良くまとまったものがいくつかあった。

 

 フランスでも、最近、テレビにも良く出る哲学者、ラファエル・エントヴェン Raphaël Enthovenが自伝的小説Le Temps gagnéを出したところ、父親、義父、妻の3人が怒っていて、裁判にもなりそう、という記事を読んだ。他人のことだったら、大笑いしそうになった。おっと、失礼…。

 

 私は写真はできるだけフランス人の顔が分からない物だけを選んでブログに載せている。というのも、夫の家族の中に、私が家族の集まりのときに、写真を撮っていたら怒り出した人がいて、その場の空気が凍りついた。こっ、こわい。公開どころか写真を撮るのすらNGであった。肖像権の問題だ。


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【クリスマス直前で大混雑のギャラリーラファイエット前。公開には、できるだけ顔の分からない写真を選び、目線を入れたりしている】

 

 自分のことになると、全く笑えない問題だった。昨日掲載した写真も人の顔が写っていないが、これはブログ用にそう撮影しているのではなくて、それ以降、家族で集まったときに、そもそも顔が出る写真はほとんど撮らないようになった。だから、こういう写真しかないのである。

 

 夫自身もFacebookで勝手に自分の写真を載せた友人と縁を切った、と言っていて、デリケートな問題だなあと思う。

 

 一方で、私は、夫との文化的摩擦が出てきたときに問題をときどきは書いておきたいな、と思っていて、たった2人でも社会だし、文化や教育の違いについては普遍性があるのかもしれないという思いからである。本来的にはどちらが正しい、という話ではないはずである。

 

 一つの家庭の中に2つの国の文化を持つことは、豊かさであると同時に面倒くさいことでもある。忍耐の学校とも言われる。グローバル化の中で、そして日本にも外国人が増えて来たと聞く中で、それが誰かが何かを考えるヒントになれば幸いなのであって、アドバイスが欲しいとか、一緒に解決してほしいわけではないのである。

 

 

 

"肖像権 - Wikipedia" https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%82%96%E5%83%8F%E6%A8%A9