パリ徒然草

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村上春樹の短編「木野」を読む(18禁)

今週のお題「下書き供養」

 

 半年以上前に、今週のお題「読書感想文」(18禁でお願いします)を書き始めたのだが、完成させることができず、下書きに、ずっと、ずっと、残っていた。読書感想文を書くとは、なんと難しいことか。今日、その感想文を「下書き」から、公開に引っ張り出すことにする。


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 読み返したくなる小説は稀だ。この小説は、3、4回読んでいる。秀作だと思う。

 短編だが、人が傷つくこと、トラウマ(心的外傷)を持ってしまうことが上手く描かれている。

 しばしば男性作家が女性の主人公を良く描けている、と褒められるが、男性作家がかっこよくない男性を、男性の脆さを書くのもまた、別の意味で難しいことではないのか、と想像する。

 モテ過ぎてふらふらする男性の弱さを私小説風に書くのは作家として、書いていても楽しそうだが、寝盗られて、それを目撃し傷つくことについての心理描写、うーん、私なら書きたくない。

 いくら小説家の大事な仕事とはいえ、このストーリーを書くのは、私ならしたくない。夫が他の女といつも寝ているベッドにいるのを目撃した後の気持ちに関するストーリーを書きたくない。いや、今そう書いたことすら消したい。言葉にしたくない。書いたら、実現しそうで、怖い。

 
 人がどう傷つくのか、描写するのは文学の大切な役割の一つだろうに、私がたくさんの小説を読んでないだけかもしれないが、正面から、それに、取り組んだ小説を私は思いつかない。(と、思ったが、村上春樹氏の小説では、初期の頃からしばしば出てくるテーマだったようだ)。

 

 フランスには寝取られた男のことをコキュ(cocu)と読んで、同情しつつ笑いものにする文化があるが、そうではない、と、村上春樹の小説「木野」は主張してくれている。


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 あらすじはこうだ。
 木野はスポーツ用品を販売する会社に17年間勤務していた。たまたま出張で1日早く戻らなくてはいけなくなって、旅先から直接、葛西のマンションに帰ったら、妻が、自分の親しい同僚と寝ていた。木野は寝室のドアを閉め、旅行バッグを肩にかけたまま家を出て、家には戻らず、翌日、会社を辞めてしまった。
 たまたま青山の根津美術館の裏手で喫茶店を経営した伯母から、店の経営から手を引くので、その店を引き継ぐ気はないかという話が数カ月前にあったので、伯母に月々の家賃を払って、バーを開くことにした。店の二階が、自宅のようになっている。

 店は居心地がいいのか、猫が出入りし、家賃が払える程度に、客も来るようになる。ある夜、二人組のチンピラっぽい男性に絡まれそうになったとき、店の常連の「神田(カミタ)」と名乗る坊主頭の30代前半ぐらいの男に、助けられる。
 別の夜、普段はカップルで訪れていた、女が一人で訪れ、二人きりになる。女は背中のタバコを押し付けられた火傷の跡を木野に見せ、木野と関係を持つ。
 その後、猫が現れなくなり店の周りに蛇が出るようになる。木野は神田に、「しばらくこの店を閉めて、遠くに行くことです」と告げられて、木野は店をたたみ、四国、九州を旅する。

 木野は神田という客からの言葉に従って、旅に出るが、その前に、神田からこんなことを言われる。
 「木野さんは自分から進んで間違ったことができるような人ではありません。それはよくわかっています。しかし正しからざることをしないでいるだけでは足りないことも、この世界にはあるのです。そういう空白を抜け道に利用するものもいます」「深く考える必要のある大事な問題です。答えはなかなか簡単には出てこないでしょう」

 木野は熊本のビジネスホテルに一人でいるとき、おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と認める。「本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることなった。蛇たちはその場所を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうとしている」

 最後に「そう、おれは傷ついている、それもとても深く」と木野は気づく。「誰かの温かい手が彼の手に向けて伸ばされ、重ねられようとしていた」と書かれている。

ーあらすじ、要約ここまで。


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 この小説は、一人称ではなくて、三人称で、「木野は」という形で書かれている。

  
 この小説を私は自分の体験に、引きつけて読んだ。子供の頃に心を傷つけられても私は無表情にその状況を受け入れて学校に行き続けた。それは随分経ってから、大人になってから、いや、今、現在も、私に生きにくさを生じさせた。傷つくべきときに傷つく代わりにもう一人の自分まで生んで、耐えた。個人的な体験ということでもなく、よくある話かもしれないと思う。

 大人になるとなったで、セクハラを受けたり、いろいろとあった。耐えているときは、自分がどれほど、傷ついているのか、全く分かっていなかった。耐えるのが、癖になってしまっていたのかもしれない。それらもまた、トラウマとして、どうやら、現在まで深く残っているようだ、と最近、気づいた。

 ショックなことほど、自分の自尊心を傷つけられた場合ほど、すぐには泣き叫んだり、怒ったりできないということはあると思う。

 自分は傷つけられる体験を生き延び、ノーと言わなかったのだから共犯者、それを受け入れた者である気すらしてしまう。そういう自分に、アンビバレントな感情を持ち続けた。

 傷つけたのは相手なのに、それを受け入れた自分を、自分の中に抱えて、自分もああいう風に生きそうで怖いと思ってしまう。

 小説の中の蛇が「聖書」の中のアダムとイブの「原罪」を、禁断の実の果実を、私に想像させる。この、キリスト教の原罪という考え方が人々を鬱々とさせる。蛇は誘惑する者でもある。

 

 私は全世界に向かって言いたい。まずね、人は生まれながらに原罪なんか、背負ってないですよ。キリスト教が、おかしいんですよ。

 木野(=私)は悪くない。木野が自分の人生を開花させるのが難しくなってしまうのが残念だ。行き場のない思いを抱え、自分を傷つけて生きるのはあんまりだ。

 何もしなかったからと言って、「罪」を引き受ける必要はないのです。神田は木野を助ける善人、アドバイザーとして、描かれているが、神田の「正しからざることをしないでいるだけでは足りないことも、この世界にはあるのです」という言葉は呪いの言葉だ。

 木野に伝えてあげたい。つまり、私自身に伝えてあげたい。あなたは幸せになれます。あなたは何も悪くない。いつの間にか三人称小説なのに、読み手の私と登場人物は一体化している。

 主人公の言葉を日本の戦後の歴史と重ねても読んだ。「本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることなった」という言葉を日本の戦後の歴史とも読んだ。
 それは、私自身の痛み、トラウマであった。私は、戦争を直接体験していないはずなのに、戦争が幼少期のトラウマなのだった。

 このブログを書き始めた理由、去年の3月に、「戦争」の言葉がマクロン大統領から6回発せられた「戦争」の言葉が私のトラウマに触ったのだ。そのことに1年も経ってやっと気づいた。そのことに気づくために書き続けたのだとしたら、書いてきて良かったと、今日、思う。

 私は、今、変なことを、皆に分からないことを書いていると知っている。別の機会に、いつか、分かるように書こうと思う。

 

 優れた作品は、作品本来の内容を超えて、様々な読み方を許すものだと思う。作者の意図とは別に、その言葉が普遍性を持っている。

 

 

(「木野」は文春文庫「女のいない男たち」に収録)


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