パリ徒然草

パリでの暮らし、日本のニュース、時々旅行、アート好き

初盆に帰れなくて

 8月13日。日本の実家では、叔母の初盆を開催していた。9人集まるはずが、大雨で通行止めがあり、7人が集まったが、お墓には、行かなかったと聞いた。雨の中、お坊さんも来てくれた。

 

 15日。雨にもかかわらず、2人が墓参りに行ってくれた。お墓に行ってくれた人がいて、ありがたい。


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 フランスでの友人が旅行中に自転車に乗っていてケガしたこともあって、とにかく日本にいる人も、雨の中、無理しないで、と言いたい気持ちでいっぱいだ。

 

 日本にいる頃、私は実家の仏教が好きではなかった。お金にまつわることを見聞きすることがいくつかあり、商業主義を感じて距離を置いてきた。

 

 そんな私も叔母を思い、パリの部屋に祭壇もどきを作り、花や果物を飾ったり、ナスやキュウリ、そうめんを飾ったり、お線香を焚いたりしている。日本の友人がお盆だから、送り団子を作った、こもを流しに行った、とメールに書いていて、風情を感じる。川や海に流す(現在では、環境汚染防止のため流してはいないが)、だとか、火で燃やすという行為は、心を浄化する生活の知恵だったのだなと改めて思う。


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 そして、三島由紀夫の小説の影響もあって、「阿頼耶識」とは何か、についてここ最近、考え続けてきた。何のことだか、さっぱり分からなかったのだけれど、「阿頼耶識」が心理学者のユングの言うところの集合的無意識と似て非なるもの、という説明でほんの少し分かった気がした。

 

 このブログを書き始めた理由は、マクロン大統領の去年3月のTV演説の中の「戦争」という6回の言葉が私のトラウマに触ったのだ。そのことに1年経ってやっと気づいた。

 

書き始めた当初の2020年3月18日の日記

https://clairefr.hatenadiary.com/entry/2020/03/18/064454

 

 「痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることなった」。村上春樹氏の小説「木野」のこの一文が、なぜか、また、私の、そのトラウマを思い起こさせた。私は、戦争を直接体験していないのに、戦争がトラウマなのだった。

 

 それは集合的無意識のせい、あるいは「阿頼耶識」のせいだろうか。痛切なものを引き受けたくなかった、のは私だけだろうか。

 

 南仏への旅行にkindelの書物から一冊だけダウンロードして、持っていった。「原爆 私たちは何も知らなかった」(有馬哲夫著)。

 

 結局、旅行中も帰ってからも、読み進んでいない。痛切なものから逃げたいのだろう。そして、逃げている限り、いつまでたっても、それはトラウマであり続ける気がしている。


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【写真はパリ市内の公園で撮影。秋の気配を感じ夏の終わりが寂しい】

 


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