パリ徒然草

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村上春樹と私

 ツイッター村上春樹の小説「ノルウェイの森」について、「読んだ後、本を投げつけた」と書いているツイートがあって、なぜだか分からないけれど、そのツイートに強く惹きつけられた。

 本を読んで、読んだ時間を損したと思うことはあっても、本そのものを投げつけるほどの感情を掻き立てられたことはないなと思ったのだ。私は子供の頃から本が好きだったし、周りの人も私以上に本にこだわっている人が多い。

 例えば、30年ほど前、「薔薇の名前」という映画のラストシーンで泣いている人がいて、「火事の中から本を救い出したことに感動した」と言った。世の中には、「本」が救われたことに感動して泣く人もいるのだ、と印象に残った。

 村上春樹の本との出会いは、大学生だった。きっと流行していたから「ノルウェイの森」を読んだのだろう。そもそも、なぜ「ノルウェイの森」を読んだのか最初に読んだ本は本当に「ノルウェイの森」だったのか、その辺りの記憶は曖昧だ。

 高校生で同じクラスの「〇しださん」に勧められて、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を読んだことは、勧めた人の名前と顔まで鮮烈に覚えているというのに、大学生でその程度の記憶しかないのだから私は当時、村上春樹の大ファンではなかった。それでも、在学中も大学を卒業してからも、何冊か読み続けて来た。

 「ノルウェイの森」はせつない気持ちに、ちょっとブルーにさせられる小説だった。登場人物のキスギや直子みたいな人間は私の大学にもいたので、身につまされた。胸が締め付けられた。気が重くなった。リアル過ぎて鬱々とさせる小説だと思った。

 当時、大学の文芸部に所属していて、理学部の先輩が「庵いいの」というペンネームで小説を書いていたのだが、その文体が村上春樹によく似ていた。


 30代を過ぎて、再び村上春樹を読む原因になったのは、フランス人の影響が大きいのだと今回振り返って気づいた。村上春樹はフランスで人気が高い。フランスで一番読まれている日本人作家だ。

 東京で出会ったフランス人女性のフランス語教師が「海辺のカフカ」を大絶賛していた。「IQ84」を私に勧めたフランス人も何人かいた。夫も仏語訳の新刊が出るとすぐに村上春樹を読み続けていて、「騎士団長殺し」を最高傑作と絶賛している。

 私は、なぜだか、ツイッターの「読んだ後、本を投げつけた」に集まる批判を読み続けた。そして、親戚でもないのに、村上春樹を擁護したい気持ちになってしまった。それらの批判をいちいち否定したくなった。(ツイッターは議論、反論の場ではなく、共感の場の雰囲気が溢れているのでいちいち、反論しなかったが…)


 ツイッターで「気取っている」という批判があったが、それは、日本社会に蔓延していたスノビズムだ。村上春樹だけのものと思えない。それに、海外では「生活の美学」「お洒落」と捉えられて読者を獲得したりもしているらしい。



 軽薄だ、という批判があったが、例えば、「ねじまき鳥クロニクル」のノモンハン事件に関わる部分は読んだのだろうか。当時から流行作家なのに、敢えて、戦時中の日本軍という重く微妙なテーマに挑む必要があるのか。それを果敢な挑戦と感じないのか?

 あるいは、地下鉄サリン事件被害者とオウム真理教信者にインタビューした「アンダーグラウンド」「約束された場所で (underground2)」は読んだのか。「IQ84」はその2つのインタビューによる取材があってこそ書かれたカルト宗教を描いた作品で、今問題になっている政治とカルト宗教とメディアの癒着ーにもつながるテーマだと思うが、いかがだろう。


 「エロ小説か」「セックス描写が多い」という批判も、当時の他の作家も、村上龍山田詠美もそういう話多かったように思う。戦後の日本で陰謀論者たちが言うように3S政策(セックス、スポーツ、スクリーン)で大衆を洗脳するという政策の一環だったのかもしれない。

 男尊女卑、自意識過剰、浅い。。。

 いやいや、それは、日本の社会全体のことではないですか。


 これらの批判は村上春樹批判というより1980年代以降の日本社会への批判のように私には、感じられた。

 軽薄、気取っている、セックスばかり、男尊女卑、浅いー。これがもし、1980年代以降の日本社会への批判だと言うのなら、私はむしろ同士がたくさんいることがとても嬉しい。

 そして、ツイッターにたくさんの批判が並べば並ぶほど、村上春樹の小説はそれほど感情を揺さぶるものがあるのだな、という気持ちにもなった。


 村上春樹の小説は便器を芸術作品だと言うようなものだ、という批判もあった。

 私は、マルセル•デュシャンの「泉」という男性便器の作品を、パリのポンピドゥーセンターでじっくり見たことがある。女性の私は、男性便器を人生でほとんど見たことがない。その作品をポンピドゥーセンターでじっくり見つめ続けることは他人に見られると恥ずかしいことのようにも、男性の秘密をのぞき込んでいるようにも、エロチックなことのようにも、そして、便器自体は造形美もあるし、光沢のある白だし、確かに芸術作品と言っていいようにも、創造の泉(フォンテーヌとは泉の意味)になってくれそうにも思えたのだった。

 この作品は「芸術作品」の概念を変えたとも言われているから、デュシャンの「泉」というレディ・メイド作品と同等というのは、褒め言葉かもしれない。


 そう、村上春樹は日本の80年代以降を代表する作家だと思う。ツイッターの批判を読めば読むほど確信に変わった。


 引っ越しして、フランスにいるのに案外村上春樹氏の日本語の小説がそばにあった。10冊以上あった。夫の影響かもしれない。


 本棚にあった1982年発行の「羊をめぐる冒険」を読み返した。ウィキペディアによると、この小説は三島由紀夫の割腹自殺した1970年11月25日から始まるのだそうだ。

 この小説では「羊」が人間に入って人間の脳を乗っ取る。「羊」は、獄中の右翼青年の体内に入る。そして彼を右翼の大物に押し出し、中国大陸に渡り情報網と財産を築きあげさせ、戦後A級戦犯となりながら釈放され戦後の政治・経済・情報の暗部を掌握させるーという話が出てくる。

 この右翼青年のモデルは児玉誉士夫であるという説がある。最近、旧統一教会との関係で、旧統一教会協会の政治団体勝共連合」の発起人に、岸信介笹川良一児玉誉士夫が語られるのを見かける。岸信介は安倍元首相の祖父に当たる。


 そして、小説の中の羊が象徴するのは、「悪の根源」「権力欲」「力」であろうか。堕天使ルシファーのようにも思える。

 主人公が友人と経営しているのは、広告代理店という設定だが、現在、話題の広告代理店も関係する五輪汚職が問題になっている。不思議な気分になる。

 「ねじまき鳥クロニクル」(92年発行)の主人公の、岡田亨は、無職だが、思慮深い人間で、「根源的な悪」と対峙する。義兄の綿谷ノボルである。

 綿谷ノボルは知的な東京大学卒の経済学者で、テレビにもてはやされるコメンテーター。テレビの中でクールに論破するが、実は、主張に一貫性はない。伯父の地盤を受け継ぎ、選挙で当選する。

 テレビにもてはやされる論破王の二世議員が「悪の根源」として、描かれていることに、今に通じる問題を鋭く見抜いていたようにも思うのである。


 「村上春樹氏本人がツイッターの批判のツイートを読まないならいいのですが」とファンが心配していた。全然、大丈夫な気がした。

 やれやれ。
 と思いながら、カティ・サークを飲んでジャズを聞く村上春樹氏が思い浮かんだ。


 ツイッターでは、村上春樹(はるきちくん)村上朝日堂bot
@hrk_asahido_botがこう言っている。
·
他人が何を言うかは他人の問題であって、あなたの問題ではありません。がんばってね。(村上春樹06/3/19)

 村上春樹の小説には、カティ・サークとか、アルマーニなどのブランド名が出てくるけれど、いまや、ムラカミハルキそのものが世界的ブランドである。私がツイッターで「ルイ・ヴィトンエルメスのバッグは高すぎる」と書いたところで、ルイ・ヴィトンエルメスの広告になるだけで、書いた私しか傷つかないのと一緒だ。


 村上春樹の作品は、謎が謎を呼んで、謎のまま解決されないまま終わる。そのことが気持ちが悪い、と思う人も多いのかもしれない。

 でも、世の中の多くの出来事は解決されないまま、私たちは死ぬ。人生で起こることはだいたい複雑に絡み合っていて、こうすれば必ずこうなる、という解決策が存在することは稀である。だから、真剣に世界と対峙すれば、するほど、虚無感を抱える。

 私は叔父を思う。中学生で被爆者の救護に当たった叔父。それから原因不明の発熱と体調不良に襲われた叔父。晩年になって、自分の頭がおかしくなったのは原爆のせいだ、とお酒の席で話していた。

 数年前、亡くなったが、トラウマを抱えたまま亡くなったと思う。本当のことは分からない。私が知る戦後日本とは叔父の人生に象徴されるものだった。それが一般的な日本人の戦後観とかけ離れていると知っているが、村上春樹の小説に漂う虚無感はそんな私の思いをも包み込む。

 私たちの世代はトラウマを負った親に育てられていることが少なくない。

 私は村上春樹の小説の底流に流れる虚無に共感できる。答えのないつくりばなしが癒やしだと感じることができる。社会の空っぽさが描かれていることに共感できる。

 まあ、でも、その空っぽさ、空虚さ、失望感に怒る人間がいることも、なんとなく理解はできるのだった。

羊をめぐる冒険
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E5%86%92%E9%99%BA

最近読んだ本
1冊でわかる村上春樹 村上春樹を読み解く会 著 神山睦美 監修