パリ市立近代美術館にヴィクトル・ブローネル(Victor Brauner 、1903年 - 1966年)の作品が展示されていた。ルーマニアに生まれ、フランスで活躍した画家。1930年代にパリでアンドレ・ブルトンらに出会い、シュルレアリスムの運動に参加。
【この作品のタイトルはConglomerosコングロマリット、終戦の年の1945年作。コングロマリットの意味は複合企業体】
パリで若い画家が飲んでいたとき、ブローネルが喧嘩の仲裁に入ってガラスの破片で片眼を失う事件があった。日本の画家、岡本太郎はこの事件に居合わせ、日本の美術雑誌に寄稿文を書いている。
第二次世界大戦中、ユダヤ人であるブローネルは初めフランス南部のペルピニャンに逃れた。ブローネルは1940年11月にマルセイユで査証を待つアンドレ•ブルトンらに合流した。1941年から数か月間は美術品蒐集家のペギー・グッゲンハイムから経済的支援を受けてこの地に滞在した。
ハンナ•アーレントなどユダヤ人を含む2,000人以上が米国人ジャーナリスト、ヴァリアン•フライらの尽力により渡米を果たすことになったが、ブローネルは、アメリカ合衆国から査証発給を拒否され、アルザス出身という偽の身分証明書だけをかろうじて手に入れた。1942年5月15日、マルセイユ港で、ブローネルの友人で最後の米国亡命者としてニューヨーク行きの船に乗船したマルセル•デュシャンを見送った。
ブローネルはこれ以後、妻のジャクリーヌとともにオート=アルプ県の小村に隠れ住んで制作を続けた。
戦後、1945年にパリに戻り、かつてアンリ・ルソー (1844-1910) が住んでいた14区ペレル通り2丁目2番のアパートに入居した。翌46年にルソーへのオマージュとしてルソーの《蛇使いの女》のパロディー《ペレル通り2丁目2番の出会い》を制作した。
1963年にフランスに帰化。1966年のヴェネツィア・ビエンナーレにフランス代表として参加。同年3月12日に死去、享年62歳。1985年、妻ジャクリーヌにより作品のほとんどがフランスに寄贈された。
ヴィクトル•ブローネル