パリ徒然草

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パリのギュスターヴ•モロー美術館 20歳でもここに来た

 記憶というのは本当に不思議だ。

 ある記憶はかなり昔の記憶でも、昨日のことのように思い出せるし、忘れているつもりでも、あるトリガーによって急に鮮明に蘇る記憶というものもあるし、ある記憶は最近のことでも覚えていない。

 

 ギュスターヴ•モロー美術館に行った。この美術館には、随分昔、私が20歳のときにも来たことがある。

 初めての海外。初めてのパリ。初めてのホームステイ。約一ヶ月の滞在。その滞在でギュスターヴ•モロー美術館に来るなんて我ながら渋い趣味だと思う。

 

 パリの16区の最上階のご家庭にホームステイしていた。素晴らしいサロンを通り抜けた先に、私専用のバスタブ付きのお風呂と洗面台、ベッド付きの広い一部屋が与えられた。一ヶ月の滞在でいくつか美術館も巡ったが、オルセー美術館ルーヴル美術館は誰もが行くとしても、ギュスターヴ•モロー美術館に一人で来る20歳日本人はそう多くはいないかもしれない。

 

 時間は限られていた。一ヶ月だ。語学学校に通っていて、自由になったのは午後だけだった。

 

 当時のパリは日本人観光客やブランドを買う日本人が多く日本人が引く手あまたで、ステイ先のマダムとファッションショーを見に行ったら、シャンゼリゼのブティックですぐに働いてくれ、とオファーがあった。1年間働きながら語学学校に行くことをホームステイ先もバックアップしてくれると言った。

 私は、日本の大学の休学のシステムを調べた上(今は分からないが、休学中も学費を払う義務があった)で、自分の親に学費等の金銭的な負担をかけられないから、とお断りした。私は大学の春休みを利用して来ていたし、パリを見学する時間が大事だともお断りした。

 

 私たちは同時に2つのことはできない。1つの現実しか経験できない。渡航費も滞在費も大学時代のバイトで稼いで来た。自分が稼いだ金で作れた貴重な時間だからこそ、時は金、今ここにいるのは貴重な時間という意識も強かった。

 

 後になって、あの時代にシャンゼリゼのブティックで働く経験も貴重な経験だっただろうに、一日だけでも働けば良かったなあ、とえらく後悔した。実際に「一日だけでも」と言われたのだ。

 で、ギュスターヴ•モロー美術館である。なぜこの美術館に来たのかというと、私は以前から画家のアンリ・マティスが好きで、アンリ・マティスの師だったのがギュスターヴモローなので、この美術館に来のだ。

 

 この美術館に最近行って20歳の頃を思い出した。20歳でこの美術館に来たときと、あまり変わっていない。螺旋階段のある部屋が印象的だった。

 ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826年 - 1898年)は、フランスの象徴主義の画家。パリに生まれ、パリで亡くなった。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られている。

 1852年、モローはパリ9区ラ・ロッシュフーコー街にある邸宅に移り住み、そこを自宅兼アトリエとした。モローは亡くなる前からこの邸宅を自身の作品の展示場にすることを考えており、展示室も作っていた。モローの死後、邸宅はコレクションとともに国に遺贈され、1903年に美術館として開館した。つまり1903年からあまり変わっていないのだ。


 モローの油彩画・水彩画だけでなくデッサンも閲覧出来るようになっている。その作品数は14000点以上とも言われる。

 20歳の頃は学芸員になることも一つの夢だったので、今よりもっとすべての絵を熱心に見ていた気がする。監視員の男性が私に話しかけて来て、美術に詳しい人でそういう話をしたいのかと思って受け答えしたら、後にただのナンパだったことが分かったという苦い思い出がある。こんなどうでもいい記憶忘れればいいのに、とも思う。

 

 働かなくても、何らかの経験はして、今、ここに書くことができているので、やはり、すべてが貴重な経験なのだ。(何度か無料のライブについて書いているが、ライブに誘った友達から、ファッションウイークのフィッティングの仕事なども回ってきたが、いや~ライブ行くのが大事だからーとお断りしたこともある。)

 ときは金なりと思っていた私が訪れた美術館。世界初の個人の美術館とも言われる。今日掲載した写真はすべてギュスターヴ•モロー美術館で撮影。モローの居住空間の部分もある。もし、私が今日載せた写真にピンときたなら、訪れる一見の価値はある場所なのではないだろうか。

ギュスターヴ•モロー美術館

14 Rue Catherine de la Rochefoucauld, 75009 Paris