その本読むな問題以降、私の魂が傷ついて泣いている。約一週間前から眠れなくなった。夫のいびきの横で眠れない。
私の過去の体験、生まれは私だけのものだし、それによって私の興味、関心も湧いて来ている。数日前から眠れないほどに傷ついている。胃がとても痛い。食欲もない。ほとんど何も食べていない。とても悲しい。
それは熱量の問題で、夫は悪くないし、どうしようもないことなのだ、と分かっている。ただの「違い」なのだと。
夫のデュオニソス的な膨大な重たいエネルギーで私が攻撃されて以来、夫が私を攻撃して打ち負かしても、護ろうとする者たちがいることに嫉妬しているのかもしれない。
それだけ大きなエネルギーで原爆投下のことを考えてくれたことないよね。私自身が悲しかったことや辛かったことを話しても、自分のことのように捉えて本気で泣いたり怒ったりしてくれたことないよね。
人は言葉だけでなく、表情や動きや口調や目の動きなどで熱量を伝えてしまう。夫(西洋人)にとって原爆投下は、アウシュヴィッツと違って映画のような、背景のようなものだ。遠い国の。
そんなことに嫉妬しても仕方ないのに。そんなことを悲しんでも仕方ないのに。
8日前の私は、こうじゃなかった。いろんなことに関心を持ち、やる気もあった。
夫の勧め通りその本を読まず、他の本を勧めてくださる人が数人いる。けれども、今、さらに、この本は辞めてあの本と言われるのは、私にとってはとても痛い、辛い。私が興味を持ったこと自体が悪いのだと、さらに自分が責められているような気持ちになる。さらに眠れなくなる。
世の中で、私自身が私の興味、関心が否定されているような、私自身の人格が私自身の経験が全否定されているような気持ちになる。
私のことを気にしてくださってありがとう。ありがたいことだ。それなのに、ごめんなさい。でも、今、私には、心配なさらなくても、どの本も読めないくらい、エネルギーがないのです。
最初に、その本を読もうと思ったときはもっと軽い気持ちだった。教養のためくらいの。読んでしまえば、一度だけさらっと読んで忘れて行く程の本だったのかもしれない。読み始めても途中で辞めたかもしれない。
逆にいろんな人にその本を読むな、と言われてしまうと、そして、「なぜその本を読みたかったのか」と問われれば問われる程、関心がそのことに集中し、寝る前に、いくつもの子供のころの鬱々とさせる思い出が蘇ってくる。
私が読もうと意欲を持った本は、きっと私にとって子供のころ嘲笑されて読まなくなった父の贈り物の本、シェイクスピアのような扱いになって、忘れて行くのだろう。
子供の頃は、まだ一行も読んでいない時点でどっと笑われて、なぜ、たまたまシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を選んでしまったんだー、と自分の浅はかさを責めたものだ。(この話、フランス文化で生きる人には「ロミオとジュリエット」がなぜ小学校の教室で嘲笑されるのか意味が分からないようで、タカアンドトシさんの「欧米か」というギャグを説明しました。笑いの文化を外国人に翻訳するのは難しいですね。当時、西洋的ロマンチック・ラブを嘲笑いたい風潮もあった気がします)
授業中にこっそり遺書を書いていた子供の頃のように自分を殺して生きたくない。自分の興味、関心だけは大切にしたい。誰も褒めてくれなくても構わないので、自分で自分の考えを大切にしたい。
そっとして触れないでいただけると助かります。アドバイスを求めていません。書くことで自分の澱のようなものを手放したいと思っているだけなのです。
そもそも、なぜこのブログを書き始めたのか。マクロン大統領が3月16日、テレビ演説で「戦争」を何度も言ったのが怖かったのだ。私は全体主義の台頭の不安に触れてもいる。
4月25日の日記
https://clairefr.hatenadiary.com/entry/2020/04/25/181152
5月12日、デパートで、シモーヌ•ド•ボーヴォワールのレ•マンダランという本を買った、と書いている。
5月12日の日記
https://clairefr.hatenadiary.com/entry/2020/05/12/031455
この本は第二次世界大戦の終盤頃、サルトル、ボーヴォワール、カミュをモデルに、彼らの文化活動、政治・社会問題、国際問題などを描いている。原爆投下の際、フランスの新聞がどのように取り上げたかが書いてあるシーンがあり、日本では論争にもなった。
そういえば、28日からお店も開いたが、力が出ないので、店にも行っていない。ギャラリー•ラファイエットにたくさん人がいたーと、友達から聞いた。
鬱々と何もせず過ごす日々。それもまた、結局、人と接触せず新型コロナウイルスの時期を生き延びるのには悪くないのかもしれない。